“The Zero Meter Diving Team” (14)
“The Zero Meter Diving Team” by Jim Shepard (14)
https://bombmagazine.org/articles/the-zero-meter-diving-team/
http://pioneer.netserv.chula.ac.th/~tpuckpan/shepard-zerometer.pdf
ミカエルはいつも僕が話している相手に純粋な機能的興味を抱くような人間だと言っていた。
その話を大人になってから親父が聞いて、笑いながら肯定した。
少しして、「誰かカペーチャの面倒を見なけりゃならなくなるなあ」と目を閉じたまま言った。
彼は居眠りをしたと思った。
私が知っている限り、彼の弟が下の階にいることには気づいていないようだった。
「僕が、一緒に住み続けなければならない」と彼は穏やかに付け加えた。
ぼくが、「もう話すな」と言うと、彼は肩をすくめた。
帰ることはない。
さようなら、プリピャチ 1986年4月28日
2年後の朝4時、僕と父は車でその地域に入った。
ヘッドライトは夜明け前の霧にかすんでいたが、父の運転手はスピードを緩めなかった。
それはまるでラリーのようだった。
運転手は放射能技術者に頼んで作ってもらった鉛の座席に座っていた。
僕がそれを見た時、「俺の玉のためさ」と、説明した。
特殊なスポットライトを持った武装した軍隊が化学防御分隊としてそこら中に配置されていた。
兵士たちは黒い服を着て特殊なスリッパを履いていた。
暗い霧の中にも植物が繁茂しているのが確認できた。
梨の木や野生の花が咲き誇っているところを通り過ぎた。
リラの花が里程標識を覆っていた。
ミカエルは2度の骨髄移植後死んだ。
3週間は生き延びたのに。
付き添いの看護師が、彼は唾液腺が壊れていたので、最後まで口の渇きを訴えていた、と言った。
しかし、僕は、それはミカエルの勇敢さであったと思う。
というのは、彼の最後の2週間の、皮膚の状態は口の渇きどころじゃなく、苦痛を与えていただろうから。
僕が訪れた何回かでは、彼は全然口がきけなかったが、口と目をしっかり閉じて僕の話を聞いていた。
彼が死んだ日には僕は新しい発電所の立ち上げでジョージアにいた。
彼は、他の彼と同じ状態の人と同じ様に鉛の棺に密封されて埋められた。