「春にして君を離れ」アガサ・クリスティ 第11章

「春にして君を離れ」アガサ・クリスティ 第11章 
“Absent in the Spring” by Agatha Christie
https://www.pdfdrive.com/absent-in-the-spring-e199881914.html
Chapter11
夢のようだった。
有刺鉄線の塊を抜けて、アラブ人の少年は彼女のスーツケースを運びながら、太ったトルコ人の駅長とおしゃべりをしている。
そこには、見慣れた寝台車の車掌が乗った寝台車が待っている。
車両には、アレッポ-スタンプールと書いてある。
フランス語で丁寧なあいさつを流しながら彼女の寝台車が開く。
既に席は寝台使用になっている。
再び、文明の中へ・・・
ジョーンは、外見上は、一週間足らず前にバグダッドを発ったジョーンと変わらない物静かな、有能な旅人だったが、自分だけは内面の変化に気付いていた。
汽車はちょうどいい時に来たのだった。
インド人の従業員の「奥様は昼食の時にお帰りにならなかったのですか、もう5時ですよ。お茶を召し上がりますか?」という言葉に、機械的に「そうするわ」と、答えた。
「でも、どちらにお出かけになっていらっしゃっていたのですか」。
「遠くまで行っていたのよ」
「それは危険です。道に迷ってしまいます。」
確かに、彼女は道に迷ってしまったが、運よく戻った。
彼女はお茶を飲んで、休むだろう。
「汽車はいつ出発するの?」
「8:30分です、ワディがひどい状態なので、積荷が無いので、定時に出発します。
奥様、顔色が悪いですね。熱でもおありじゃないですか?」
「いいえ」
「奥様、いつもと様子が違います。」
ジョーンは部屋のきたない鏡で顔を映して見た。
老けて見えた。
目の下にはくまがあった。
顔には汗と黄色いすじが付いていた。
顔を洗って、おしろいをつけ、口紅を付けてもう一度顔を見た。
確かに、表情から何かがなくなっている。
「うぬぼれ?」
私は何てうぬぼれの強い女だったんだろう。
「ロドニー・・・」心の中で呟いた。
「私は馬鹿な出来損ないです。あなたの知恵とやさしさで私を導いてください」
彼女は、ため息をついた。
疲れて体中が痛かった。
お茶を飲んで、夕食と電車の出発の時間までベッドに横になった。
もはや、とかげは穴から出てくることはなかった。
ただ休みたかった、心安らかに・・・

 そして今、彼女は汽車の中で、車掌にパスポートと切符を手渡しながら、彼がスタンプールに電信でシンプトン・オリエント急行を予約したことを確かめた。
彼女はアレッポからロドニーヘ「旅行遅延、順調、愛するジョーンへ」と電報を依頼した。
ロドニーは彼女の最初の予定が失効する前に電報を受け取るだろう。
5日の平和で穏やかな期間、タウラス・オリエント急行は彼女をロドニーのところに運ぶだろう。

次の日の早朝、汽車はアレッポに着いた。
アレッポまでは乗客はジョーンしかいなかったが、アレッポ以降は寝台車は人であふれかえっていた。
ジョーンは一等車に乗っていたのだが、タウラス急行の一等車はオールド・ダブル・寝台車だった。
ドアが開いて、黒い服を着た背の高い女性が入ってきた。
ポーターに荷物の置き場所を指示した後、ジョーンの方を向いて微笑んで「英国人ですね」と言った。
40歳ぐらいに見えた。
「こんな朝早く入って来てごめんなさい。こんな時間に出発するなんて、野蛮な汽車ですわね。それに、二人用の旧式の寝台車でしょ」とあどけない笑顔で笑った。
「スタンプールまでたった二日なんですもの、仲良く過ごしましょう。もし私が煙草を吸いすぎたら注意してね。あなたの睡眠の邪魔をしないように食堂車に行って、朝食まで待つわ。お邪魔してごめんなさいね。」
ジョーンは「全然、大丈夫ですよ。旅行にはありがちの事ですもの」と言った。
「お優しい方ね、うまくやれそうね。」
彼女は寝台者を出て行った。
ジョーンは彼女がプラットホームで見送られているとき「サーシャ」と呼ばれていたのを聞いていた。
ジョーンが目を覚ましお化粧を済ませた時に汽車はアレッポを離れた。
通路を通るとき、同乗者のスーツケースの名札をちらっと見た。
プリンセス・ホーヘンバッハ・サルム。
食堂車で背の低い太ったフランス人の男と話しながら食事をしている新しい同乗者を見た。
プリンセスはジョーンに手を振って彼女にプリンセスの隣に座るように言った。
太ったフランス人は食事を終えて丁重にお辞儀をして出て行った。
ジョーンが「数か国語をお話になるんですね、すばらしい」と言うと、
「私はロシア人です。ギリシャ人の夫と結婚しています、イタリアで長いこと住みました。
人類に興味があります、ほんの短い時間しかこの地球に生きていないのですから。
電車は平原を越えてタウラウをゆっくり登って行った。
ジョーンはこの別の世界から来た女性に興味を持った。
サーシャは突然ジョーンに言った。
「あなたは本を読みませんね、英国人らしくありませんね。」
「実は、持って来た本を全部読んじゃって、読む本が無いです」とジョーン。
「でも、あなたには読書は必要なさそうね。そこに座って窓の外を見ているだけで充足している、でも景色を見ているわけではない。
自分自身を見ている、悲しみを抱えているの?それとも幸せ?
普通の当たり障りのない質問じゃなくて、不躾かしら。」
ジョーンは突然彼女の心の中をこの優しい、変な外人に打ち明けてみようかと言う気持ちになった。
彼女は、ゆっくりと、「そうなんです。わたしはびっくりするような経験をしたところなんです。」と、きりだした。
「私はテル・アブ・ハミッドのレストハウスで一人きりだったんです。
私は今まで考えたことも無かった、いや敢えて考えようとしてこなかった、自分自身の事について考え始めました。
それは、神に見放されたような感覚で。
その後、突然すべてが分かって、家に帰って最初からもう一度やりなおすべきだと理解しました。
バカげたことを言ってしまいましたわ。」
「いいえ、それは多くの聖人に起こることなんです。」
「私は夫を幸せにしてこなかった、家に帰ったら夫と、新しい生活を作っていく。」
サーシャは「それこそが聖人の出来る事なのです」と真剣な顔で言った。
 ジョーンは「あなたはシンプロン・オリエントに乗る予定ですか」と言うと、
「いいえ、スタンプールで一泊してウイーンへまいります。私はそこで死ぬでしょう。」
ジョーンが驚いて、「あなたはそんな予感がするんですか?」
「いいえ、ウイーンに上手な医者がいて、そこで成功率の少ない手術を受けるんです。
ユダヤ人の医者ですが、ヨーロッパの全てのユダヤ人を撲滅すると言うのは間違っています。
私は手術が成功したら、修道院の入るつもりです。
戦争になったら、もっと祈りが必要になるでしょう。
戦争が来年か再来年に起きるでしょう。」
「どこで?どの国が?」と、ジョーン。
「世界中で。私の友人はドイツがすぐ、勝利するだろうと言うけど、私はそうは思いません。」
「私にはドイツにいる友達がたくさんいますが、彼らはナチ運動に支持すべきものがあると言っていますよ。」
「三年後を見ていてください。」
 電車がゆっくり停車した。
「ギュレク峠に着きましたよ。さあ、出てみましょう。」
日没に近く、空気は冷たかった。
ジョーンは思った。
何て美しいのだろう。
ロドニーが一緒にいてこの景色を一緒に見られたらよかったのに。

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