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“The Zero Meter Diving Team” by Jim Shepard 

“The Zero Meter Diving Team” by Jim Shepard 
https://bombmagazine.org/articles/the-zero-meter-diving-team/
http://pioneer.netserv.chula.ac.th/~tpuckpan/shepard-zerometer.pdf
nd’s eye: my brother, nodding.

物語は、お母さんが写してくれた、お父さん(発電所所長)に連れられて、高飛び込みの練習をする3兄弟の写真から始まる。
語り手は長男のボリス、3歳年下のミカイル、5歳年下のペーチャ。
メキシコオリンピックの高飛び込みに影響を受けた父親が、子供たちを高飛び込みの選手にしようと無理やりやらせているので、飛び込み台の高さは、それこそタイトル通りゼロメートルなのに子供たちは泣き顔だ。
3人の兄弟の内、一番下のペーチャはどうも、お母さんが違うようだ。
お父さんが引用した、ストルガツキーの格言「理性とは身の回りにある力を、その世界を壊すことなく使う能力の事である」と言う言葉を、25年後にボリス自身がチェルノブイリ事故の報告書の中で引用している。
あの4月の温かい夜、プリピャチ川の発電所で何があったかって?
ミカエルは28歳でシニア・タービン・エンジニアとして就職でき、満足していた。
ピーチャは定職に就かずぶらぶら。
ピーチャがセメントトラックでヒッチハイクをしてミカエルの家にたどり着いて、疲れて眠っている時、ミカエルから、「ピーチャはどうして兄貴に従わないんだろう?」という、いつにない電話がかかってきた。
ミカエルの勤務は深夜勤で爆発の1時間25分からだ。
同じ勤務の同僚は朝まで生き残っていなかった。
後で聞いたのだが、ピーチャは彼の悪友と熱交換器から冷却池に排出される温水路の近くの砂州で釣りをしていた。
ボリス(僕)は原子力エネルギー局の主任技術者としては、発電所のデザインと操作手順に問題があることは知っていたが、それをあえて問題視しなかった。
縁故主義がはびこっていた。
僕が父親から今の地位をもらい、ミカエルは僕から地位をもらった、と人々は言っていた。
僕たちはどこにでもある成功学説の元に生きていて、否定的な情報は上級幹部しか保有できなかった。
30年間事故は報告されず、その事故から引き出される教訓も経験者のみが知るだけで、共有されることはなかった、つまり事故そのものがなかったかのように。
バラコボで立ち上げ手順でへまをやらかして、14人の死者を並べる事になった、主任技術者を前に「土鍋を焼くのに神は必要ない。」と言って、彼を首にするのに反対した。
ミカエルが訓練手順の不備を指摘した文書を提出した時も握りつぶしてしまった。
原子力エネルギー省の主任技師も彼の羨ましいほど立派なモスクワのマンションで眠っていた。
その年で一番美しい四月の晴れた夜だった。
プリピャチ川も、ウクライナも眠っていた。
ミカエルは起きていた。
ペーチャは水に浸かって釣りをしていた。
ミカエルを含む、第四原子炉のスタッフたちは、停電の時、何時間ほどタービンが回り続け、発電が可能かを知るためのテストをしていた。
危険な試験ではあったが、前にもやったことはあった。
この試験を行うため、自動停止装置を含む臨界制御システムが切られていた。
緊急炉心冷却システムを切った。
彼らの考えでは、それは、テストの終了後高熱の原子炉がヒートショックを起こさないように、冷却水が原子炉に流入しないようにするためだった。
しかし、これは原子炉の中で何が起こるのかを理解できないものだけが行い得る行為だったのだ。
そして、一度それを行ってしまえば、彼らの標準操作は彼らを大参事ヘと導いたのだった。
机上の理論としてのそのテストは、半標準操作で、中央官庁のお偉方の主導によって行われた。
ミカエルはその事を知っていたのか?
彼の主な責任範囲はタービンだ、そうだとしても。
かれは同僚の愚かさ加減を知っていたのか。
彼は、親父のブーツに殴られた腹いせにおしっこをするような子供だった。
ミカエルの制御室の誰も充分わかってはいなかったのだ。
ミカエルの上司についても、「彼も兄貴と同じユーモアのセンスを持ち合わせている」と言っていた。
彼らがテストを始めて数分後、冷却水が低下し、動力が増加し始めた。
アキモフと彼のチームは原子炉を切ろうとした。
しかし、低下の初期に、制御棒の形状があんなふうで、彼らは長時間待ちすぎて、実際は反応度を増加させることになってしまった。
1986年5月1日、モスクワの第6診療所で2人のタービン技師と電気技師の若者、に会った。
ミカエルの両側のベッドに寝ていた。
訓練生が時計と結婚指輪をビニールの袋に集めていた。
みんな吐しゃ物を受ける受け皿が無く、床におう吐していた。
ひどい匂いだ。
トレイを持った看護師たちは曲がり角ですべっていた。
ミカエルは歯茎までマホガニーのような暗い茶色だ。
僕が彼を見て「黒んぼだ」と笑って言った。
医者が静脈をうぃ「これを被爆やけど」というんですよ、と言いながら包帯を替えていた。
僕は、半分公人として、あの時何が起きたのかを調査するためにそこにいた。
ミカエルは「調査官が泣いている!」と言ったが、両側の技術者たちは、共感していなかった。
時々、おう吐しながら、ミカエルが言った事。
彼(ミカエル)は制御室の下位部門である情報処理室にいた。
建物全体が2度ゆれて、灯火が消えた。
建物が空中に投げ出されて天井の一部が倒壊したようだった。
蒸気が下の方にあり、床から蒸気噴流が噴出していた。
「緊急事態だ!」と誰かが叫んでいるのが聞こえて、ホールに走って行った。
電線がショートして光を発していた。
空気はオゾンの匂いがしてのどがイガイガした。
彼のすぐ上の壁は無くなっていて、切断された高圧電線の末端が紫色の光がパチパチ発しているのが見えた。
火事と、黒い灰が剥片状になってい降って来て、赤い熱の塊と何かの破片が床で燃えているのが見えた。
彼(ミカエル)は全員がパニック状態の制御室に上がって行った。
アキモフは部門の上層部に助けを求める電話をかけていた。
表示板では、制御棒は半分挿入された状態だった。
おびえながら立っていた、2人の学校を卒業したばかりの練習生に、手動で制御棒を押し下げるよう命じた。

「捜査官は泣いているぞ」とミカエルはもう一度、勝ち誇ったように言った。
僕(ボリス)は、「これは大悲劇だ」と彼をたしなめるように言った。
「ああそうだ、悲劇、悲劇、悲劇」かれは、まるでお茶でも勧められたときのように言った。
話の先を促すと、
「防御システムは何もない」とペレボチェンコが言っていたのを思い出した。
彼らの胸は火傷した感じだった。
彼らの気管支と肺胞は放射性核種でいっぱいになっていた。
アキノフは中央ホールの損傷を確かめに行かせた。
彼は建物の上部が吹っ飛んでいることが確認できる、排気室を通って中央ホールへ向かった。
彼の後ろのどこからか放射能水が崩壊堆積物に降り注いでいる音が聞こえた。
光線があらゆる方向に向かって発出していて、目にいたかった。
胸の中が沸騰するように熱く感じた。
蒸気は酸性の味がして、肌で静電気のびりびりする感じがした。
後で分かったのだが、放射能場が強い場合、空気をイオン化するのだ。

「捜査官、それを取ってくれ」、ミカエルは水を飲もうとした。
1時23分58秒、ミカエルが情報処理室で感じた、原子炉と第4建屋を破壊した、2度の爆発は水素爆発だった。
放射能汚染物は、36000フィートの高さまでひろがり、50トンの原子燃料が蒸発した。
他の70トンが構造物の残骸と共に原子炉の設置面に散らばっていた。
あふれだした燃料の放射線は一時間あたり2万レントゲンに達した。
私たち原理緑発電所のオペレーターの規則書によれば、最大許容摂取量は年間5レントゲンだ。

ペーチャは、爆発が地鳴りを起こし、水面が波だったとき、「だれか、金持ちの馬鹿が失職した!」と言った。
池の彼らの周りにコンクリートや金属の破片が落ち始めた。
破片が水に入る瞬間ジュッといっているのが聞こえた。
彼ら(ペーチャと友達)は原子炉の上に雲が沸き上がるのを見た。
その時までには火は建物の端の上に有った。
格納容器の壁の割れ目から濃い青色の光が見えた。
その時はまさか、その「だれか」が、彼の一番上の兄がその本人だとは思っていなかったのだと思う。
そのときまでには、彼らは怖くなって、釣り糸を引き上げながら涙を出していた。
頭が混乱して、ぼーっとなっていたので、500m離れた医療施設まで行くのに一時間かかった。
彼らが到着した時までには、医療施設は戦場のようになっていた。
学校は勤勉さやゴマすりを教えはしたがイエスマンしか育ててこなかった。

爆発が起こった次の日の午後4時、政府の委員会が全国から集まり始めた。
その日の朝5時に共産党委員長から電話があった。
局長が彼に原子炉自体には大きな損傷は無く放射線量は正常値内だと断言していた。
しかし、被害は甚大で、火事を制御する事も出来ていなかった。
僕が委員長に汗を拭きながら彼の言っていることは正しくない、と電話で告げると、委員長は「そうか」と言っただけだった。
僕は8時30分までに軍用機でそこに行くはずだった。
ミカエルが勤務中だったのは知っていたが、ペーチャに電話しても返事はなかった。
空港からの路で、路肩にあふれる白い泡を避けて速度を落とした。
我々は、通りすぎる除染トラックの騒音でしゃべれなかった。
静かになってから、原子炉はむき出しのままかどうかを議論した。
設計者は良く設計されているので、おそらく、担当の馬鹿者がそれを吹き飛ばそうとしても無理だろう、と言った。
しかし、我々が町議会会議室の屋上に集まって第4建屋を見た時、その議論はぺちゃんこにつぶされてしまった。
壁はなくなり、後ろから炎が立ち上がっていた。
空気は金属臭がしていた。
子供たちが体操の時間で運動場にいる声が聞こえた。
「風はどっちの方向に吹いている?」と誰かが聞いたので、全員が若者クラブの旗を見た。
 町議会会議室にもどって、窓を閉め、瞬間瞬間に寄せられる正反対の情報を、一時間ほど大声で議論をした。
「ミカエルはどこだ?」僕の頭の中で繰り返していた。
どうすべきなのか、全く考え付かなかった。
母がかつて言っていたように、頭の上で起きたのなら雷にすぎない。
我々は、だれも正しい目盛りの線量計を持っていないのだから、放射能レベルを正確に測定するのは不可能だ、と言った。
ここの線量は1秒当たり1000マイクロレントゲンに上がっていて、時間当たりにすれば3.6レントゲンだった。
だから、いつ測っても針が降り切れていた。
しかし、モスクワが放射線量を聞いてくるので、時間当たり上限の3.6レントゲンを放射線量として報告した。
発電所は高レベル放射線量を測定できる線量計を持っていたと核部門の副担当者は報告した。
しかし、それは爆風で埋もれていた。
みんなが、悪いニュースが自分で報道されるよう望んでいた。
そしてそれに対する責任や非難が気付かないうちに、ある特定の個人だけに向けられない事を望んでいた。
これが、一分でも公表が遅れれば市民全員の致命的な被ばくに繋がる緊急時の、我々調査担当者たち全員の気持ちだった。
市民、外で通常の一日をすごしている全ての子供達の。
第4原子炉の副主任操作技術者は頭の中で、2つの相互矛盾する現実を受け入れようと努力していた。
1. 原子炉は損傷を受けていない、我々はその過熱を防ぐため水を注入し続ける必要がある。
2. 黒鉛と燃料がそこら中の地面に散乱している。それはどこから来ているのか?
本部で働いている人は誰も防護服を着ていないという事を聞いた。
労働者たちは除染するためウオッカを飲んでいる、と言った。
全員が現状が把握できていなかった。
それがロシア流の話だった。

やり方も分からないゲームをずっと、続けた。
学校の先生たちは、海外の友人たちから聞いた事故の事を、親せきから又聞きで聞いた。
スエーデン原子力発電所はすでに放射性物質の急上昇に警告を発していた。
しかし、先生たちは、情報を入手した時、生徒たちを家に帰すべきか、通常授業を続けるべきか尋ねた時、地域委員会の理事長は、通常通り、と言った。
その時点での党の主な関心事は、そんな大規模な事故はそのような発電所では起こりえないという事を認めさせようとする事のようだった。
我々は、少なくとも要素131の甲状腺への吸収を防ぐだけの、ヨウカナトリウム錠剤の十分な備蓄を持っていた。
その時点では、我々はその配布の権限を与えられてはいなかった。
だから、その日の午後中、子供たちは通りで遊んでいた。
母親は洗濯物を干し、美しい一日だった。
放射能は、髪や衣服に集積した。
徒歩や自転車でヤノフ駅の近くの橋に集まってきた集団が原子炉を見つめていた。
彼らは発電所の上の美しく輝く雲が彼らの方へ散ってゆくのを見ていた。
彼らは原子炉芯から直接発散する恐ろしいエックス線を浴びていた。
最初に駆けつけた消防隊は屋根の上での15分の作業で機能しなくなった。
15分ずつのローテーションを組んで24時間ぶっ通しで、現在まで、そして全地区から集められた12の消防隊が、壊滅した。
消防士がホースを原子炉に向けて一列になって立っていた本部の屋上は溶鉱炉の扉のようだった。
後でわかった事だが、そこでは原子炉芯が一時間当たり3万レントゲンを発生していた。
ヘリコプターでやったらどうだろう、と誰かが言った。
ヘリなら原子炉の上に砂を撒ける。
最初は一笑に付されたが、やがて受け入れられた。
砂を摘めた袋を縛るロープが必要だった。
誰かがメーデーの祭日のために集めた赤い布を見つけて来て、みんなで引き裂き始めた。
若者が袋に砂を詰めるために集められた。
僕は、現地を自分で見るとため言い訳して、そこを離れた。
ミカエルを見つけた。
ミカエルはその時点ですでに茶色だった。
僕は、彼はモスクワの病院行の即別飛行の該当者であると、彼に言った。
彼の肌の色は、その時点でまだ被ばく線量の測定方法が無い時点で、主要基準を満たしていた。
僕がそこにいる間ずっと、彼はモルヒネを投与されて意識がなかった。
子供の頃は彼は眠れなくて、最後にウトウトする時はいつも彼の顔に悲しみが現れていた。
病院のベッドでは、まるで熱帯の木で彫った彼自身のマスクをかぶっているかのように穏やかだった。
しばらくして、僕は病院の雑役係に帰ってペーチャを捜しに行くと告げた。
彼のアパートを探す途中、出会った人たちに、子供たちがいる人にはヨウ素カリウムを渡して、もしもの場合、これをすぐ子供たちに飲ませなさいと言った。
ペーチャのアパートは見つけたが、彼はそこにいなかった。
前歯が一本しかないおせっかいな隣人が、彼は前の日からいないと言って、僕にいろいろ質問した。
その時までに会議に出るため帰らねばならなかった。
会議の出席者は僕が不在だったことには気付かなかった。
進展はなかったが、建物の外では、砂袋に砂を詰めていた。
午後遅くには、最悪の言い訳をする人々も避難の準備が必要だと認めた。
その間、多くの労働者が放射能の領域の中心にありもしない原子炉に冷却水を供給するために送り込まれた。
ヘリコプターは砂袋の投下を始め、行き来するヘリコプターのローターが放射能の粉末の砂嵐をかき混ぜた。
乗組員は砂袋を投下するために3から5分ホバリングしなければならなかった。
ほとんどのヘリは2回で、被ばく量の限界に達したので、飛行を中止した。
地区は、ついにペーチャも医療センターに送った。
その時までには、僕はモスクワへの緊急搬送のための空港に行っていた。
彼がどれくらい被ばくしたのか聞いてもだれも答えられなかった。

日曜日の午前十時、町はついに窓を閉め、子供たちを外に出さないように勧告を出した。
4時間後、避難が始まった。

市民は、3日分の食料と、書類と必要な品物を集め、掲示された場所に集合するように言われた。
ほとんどの人々が温かい衣類さえ持って来ていなかった。
町全体がバスに乗って運び去られた。
乗っている多くの人々がひどく被爆していた。
バスは街からずっと離れた場所に行って除染された。
百台近くのバスが18kmの列を作った。
ひどい光景だった。
バスは埃を巻き上げながら進んでいった。
ある場所では、子供たちがおもちゃを路肩においたままの、まだ待っている家族を乗せた。

委員会の会議が終わった夜、僕は家路についた。
街灯は消えていたが、一歩一歩近づいているのを感じた。
街の中心部にいて、月の裏側にいた方がまだました、と言う気分だった。
思わず、ピーチャが川にいたことを思い出した。
車がひっくり返っていると、ピーチャがその下にいるような気がした。
ピーチャはモスクワの第6病院のミカエルの下の階に収容されている事が分かった。
担当者に何らかのトリアージ(病人の緊急性による区分け)が行なわれているのか尋ねると、「(あなたは、ピーチャの)近縁者ですか?」と聞くので、そうだ、と答えると、「行われていません」と、答えた。
彼は、2種類の点滴を受けていた。
それほど悪いようには見えなかった。少し青ざめていたが、肌の色も普通だった。
髪はむしろふさふさしていた。
「ボリス・ヤコブレビッチ」と言った。
僕に会えてうれしそうだった。
やっと、横になれたよ、と、彼は冗談を言った。
僕はいつも彼に、横になっていないで、働け、と言い続けていたから。
「親父、会いに来るかなあ?僕はすぐここから出られるのに」と彼が聞くので、わからない、と答えた。
ミカエルはどうしているの、と聞くので、今から彼のところに行くので、あとで知らせるよ、と言った。
しばらくして、「兄貴は僕にすまないと思っているの?」と聞くので、通りかかった看護師が驚いていた。
「勿論、思っているさ」と答えた。
「兄貴にとって、時には、言いにくいだろうけど」
沈黙の後「何かできる事はあるかい?」と僕は言った。
「僕は、いわゆる、腸症候群期なんだ。」と消沈して言った。
つまり、一日30回ウンチをする、口からものどからも、だから物を食べたり飲んだりできなかった。
彼は、原子炉の状態について、まるでエンジニアの様に質問した。
その後、そもそもどうして原子炉の側に行くのを止めたかを説明した。
彼は彼の新しいプリピャチのアパートについて説明し、バイクを買う金を貯めたかった、と言った。
その後、「もう寝るよ」と告げた。
僕が立ち上がって帰ろうとすると、「何か読み物を持って来てよ、僕が読めないものは除いて・・・・・、やっぱりどうでもいいや。」と言った。
上の階には、生き残っている患者だけが無菌室に入れられていた。
ミカエルは裸で黄色のクリームにくるまれていた。
浸出液の付いた詰め物がホールの背の低い箱に詰まっていた。
彼を温めるための大きなランプがベッドを囲んでいた。
かれは、挨拶をする代わりに、「親父が会いに来たよ」と言った。
かれは、4つの骨髄サンプルが抽出されたけど、それ以来誰も彼に話をしていない、と言った。
一番の痛いところは口と胃だった。
彼が飲み物を欲しがったので、持って来ていたマンゴジュースを差し出した。
彼はミネラルウォーターに飽きていたのだ。
横を通っている医者に、「歩く音が下痢をもようさせるんだよ!」とどなった。

かれは、まるで事故の議論をしている途中であるかのように、「我々が外に出た時、周り中に黒鉛が散らばっていた。」と言った。
「誰かがそれに触れたら、腕が火傷をしたように腫れあがった」
「それで、それが何か分かったんだね」と僕は言った。

クリームのため彼には触れないと思っていた。
彼はいつも僕をイラつかせる、そして僕がそうでありたいと思っていたような少年だった。
僕は冷たい少年だったが、彼は必要な時には、自分でなりたいと思うような孤高の少年だった。
トレイの中にきちんとまとめられた軟膏、チンキ剤、クリームとガーゼ。
彼は僕が出て行くのを待っている間、作ったような忍耐を見せつけた。

「何かないものは無い?あれば持ってくるよ」と僕が言った。
かれは、「僕は弟のボリスの最大許容量の被ばくをしている、健康を取り戻す必要がある」と言った後に、アキモフが死んだことを言った。
言えるのは、「自分がやったことは間違っていなかった、どんな風にそれが起こってしまったのか理解できない、とだけ、かれが言い続けていた。」と言う事だ。
彼はジュースを飲み終えた。
ミカエルはいつも僕が話している相手に純粋な機能的興味を抱くような人間だと言っていた。
その話を大人になってから親父が聞いて、笑いながら肯定した。
少しして、「誰かカペーチャの面倒を見なけりゃならなくなるなあ」と目を閉じたまま言った。
彼は居眠りをしたと思った。
私が知っている限り、彼の弟が下の階にいることには気づいていないようだった。
「僕が、一緒に住み続けなければならない」と彼は穏やかに付け加えた。
ぼくが、「もう話すな」と言うと、彼は肩をすくめた。

帰ることはない。
さようなら、プリピャチ 1986年4月28日

2年後の朝4時、僕と父は車でその地域に入った。
ヘッドライトは夜明け前の霧にかすんでいたが、父の運転手はスピードを緩めなかった。
それはまるでラリーのようだった。
運転手は放射能技術者に頼んで作ってもらった鉛の座席に座っていた。
僕がそれを見た時、「俺の玉のためさ」と、説明した。
特殊なスポットライトを持った武装した軍隊が化学防御分隊としてそこら中に配置されていた。
兵士たちは黒い服を着て特殊なスリッパを履いていた。

暗い霧の中にも植物が繁茂しているのが確認できた。
梨の木や野生の花が咲き誇っているところを通り過ぎた。
リラの花が里程標識を覆っていた。
ミカエルは2度の骨髄移植後死んだ。
3週間は生き延びたのに。
付き添いの看護師が、彼は唾液腺が壊れていたので、最後まで口の渇きを訴えていた、と言った。
しかし、僕は、それはミカエルの勇敢さであったと思う。
というのは、彼の最後の2週間の、皮膚の状態は口の渇きどころじゃなく、苦痛を与えていただろうから。
僕が訪れた何回かでは、彼は全然口がきけなかったが、口と目をしっかり閉じて僕の話を聞いていた。
彼が死んだ日には僕は新しい発電所の立ち上げでジョージアにいた。
彼は、他の彼と同じ状態の人と同じ様に鉛の棺に密封されて埋められた。
ペーチャはその時までには、父と僕が用意したペンションで臥せっていた。
25歳だった。
そのビルにはエレベーターがなかったので、自力で彼の階に上がることはできない事が分かったが、僕がたまに電話すると、僕は幸せだよ、と言った。
一日中横になって、誰にも文句を言われる事も無く、煙草を吸い、他人に何かやれと言われる事も無く、カセットプレーヤーで音楽を聞いていた。

「困ったもんだ」と父は車の中で呟いた。
「何が?」と僕は聞いた。二人とも怒っていた。
父は不満げに僕を見ながら話すのを止めた。

プリピャチでは検問所として木製の車止めが設置され、一人の役人と2人の兵士がいた。
兵士たちはその保護マスクにタバコ用の穴を開けていた。
兵士たちは僕の父を待ち構えていて、現場に入らせないようにした。
彼の運転手は足を車の窓から投げ出していびきをかいて眠り始めた。
僕だけが中央広場に行き、原子炉跡に面するビルの中を覗き込んだ。
ビルの舗装のはがれた音の響く廊下を歩き、ノートパッドやペンが散乱する無人の事務所を覗きこんだ。
その中のひとつに贈り物用の箱に入った梱包を解きかけた、年月か虫によって破損した、子供用のドレスがあった。
学校の前の通りを渡ったところには、歩道から木が生えていた。
僕は、そこにあるものには触れないで、開いた窓から教室を横切って、歩いた。
誰もいないプール付きの日光浴室を通り過ぎた。
箱の中に小さなガスマスクがある幼稚園。
その多くは、たくさんのおもちゃと一緒に、ひっくり返され盗まれたのだろう。
ある教室の先生の机の前には、赤い黒板に、誰かが「帰ることはない。
さようなら、プリピャチ 1986年4月28日」と書いていた。
現在分かっている通り、放射能に汚染された区域は、10万平方キロメートル以上である。
チェルノブイリで働いていた多くの人が死んだ。
多くは未だに生きて苦しんでいる。
特に、子供たちは、口腔癌のような、原因不明の病気に苦しんでいる。
モスクワの生物物理学研究所の所長は市民の間では放射能疾患の報告例は無いと公表している。
保健省に治療費の申請をした人々は放射能恐怖症だと言って責められる。
大量の放射性核種が汚染区域の貯水池や帯水層に流れ出している。
人間が住めるようになるには約600年±300年かかると推定されている。
僕の父は300年だと言った。
彼は楽観論者だった。
概ねの数字でも、誰も、何人の人が死んだのか知らない。
原子炉は石棺で包まれ、最悪の有り得る状況を想定して作られたのに、広大なコンクリートと金属のピラミッドがすでに崩壊の危機にあると知らされた。
亀裂から雨がいり込み、塵芥が漏れ出し、小動物が出入りしている。

僕は校庭を出て松の小木の生えた小道を歩いた。
見渡す限り、車両がうち捨てられていた、消防車、装甲兵員輸送車、クレーン、トラクター、救急車、ミキサー車、トラック。
世界最大の廃品置き場だった。
汚染されているのに、大部分が部品を抜き取られていた。
道路から離れるたびに、線量計の測定値に1000マイクロレントゲンが追加された。

ミカエルが死んだ次の週、僕は父に手紙を書いた。
他の人々の道徳的怒りについて質問した。
あの大参事の時に作りだされた、自己満足、自己賞賛、腐敗、保護主義、心の狭さ、自分に向けての特権、という病を非難する切り抜きを送った。
僕が見たトラクターの横に書かれた落書きを、彼のために、写し取った。
それには、ある種の怠慢と無能は他人の愛国心で塗りつぶせない、と書いてあった。
父からの返事はなかった。
父と僕は事故原因調査委員会の役員を任命するための会議に出席していた。
私たちが提案した名簿は、原子力発電所の設計者を候補にあげ、それを操作した技術者は候補に入れませんでした。
それで、委員会の最終報告書では、誰が非難されたのか?
技術者たちです。
ほとんど技術者全員が死んでしまいました。
病院から引き出されて刑務所に入れられた人もいた。

彼が逮捕されている間、彼は、事故の次の週のモスクワ記者会見でのペトロシアンの悪名高い発言を引用したと言われた:「科学には犠牲者が必要だ」

私たちの報告書を提出した時、おまえは「まだ、十字軍気取りかい?」と、父は僕に尋ねた。
それが父に会った最後だった。
「そうさ」と、僕は答えた。
その後で、3日間酔いつぶれてしまった。
僕は最初の設計図を引っ張り出した。
制御棒の設計図を徹夜で見て、僕がもはや見る事ができなくなった隠れたパターンの様なその欠陥を見ていた。

しかし、そんな深夜の感傷は洞察としてより慰めとしてしか機能しない。

3日考えて、必要なのは変更だけだ、と気が付いた。

小さな口を開けた赤い狐が数メートル先の道を横切った。
動物は人間がいなくなって以来機敏さを失ったと言われた。
残された被ばくしている犬が野生化するという問題があり、兵士の特別な分遣隊がそれらを撃つためにバスで運ばれた。
カーブを曲がったところで、避難に使われた高速道路に出くわした。
アスファルトは未だに乾いた除染液で粉っぽい青い色だった。
私の左手には畑に沿って柵が走っていた。
そこに立っていると、音が近づいて来て、ポプラ並木の方から馬の群れが現れて、駆け抜けて行った。
数分後にはあちこちに足を蹴り上げて、青と茶色の埃を巻き上げるパニックを起こした縞模様の馬と化していた。

「僕は彼が望んだ兄貴だったのだろうか」と最後から2番目の訪問の時ミカエルに聞いた。
彼は目も口も閉じていた。
彼は僕とより自分自身と戦っているようだったが、彼はうなずいた。
あの夜、病院からの帰り道、僕は自分の心の目で、彼がうなずいているのを見た。


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