「春にして君を離れ」アガサ・クリスティ 最終章

「春にして君を離れ」アガサ・クリスティ 最終章
“Absent in the Spring” by Agatha Christie
https://www.pdfdrive.com/absent-in-the-spring-e199881914.html
Epilogue
ロドニー スカダモアは妻が入れてくれるお茶を椅子に座って待っていた。
10月のいつもと違う温かさに騙された矢車草が窓ガラスを叩いていた。
コツコツコツ・・・
ジョーンが、「ティンクル、ティンクル、ティンクル」と呟いている。
音は人によっては意味があるが、人によっては無意味だ。
彼は、妻が帰ってきたときには何か変だと思ったのは、間違っていたのかもしれないと結論した。
いつも通りの彼女だ。
今は、彼女は二階に荷物を解きに行っている。
ロドニーはホールを横切って、事務所から持ち帰った仕事がある書斎に行った。
彼は机の小さな右上の引き出しを開けてバーバラから来た手紙を出した。
それはジョーンがバグダッドを発つ数日前に航空便で出された物だった。
詳しく書かれた手紙で、彼はその内容をほぼ暗記していた。

 だから、私はお父さんに全てを話しました。
全ておわかりと思います。
私の事はご心配には及びません。
お母さんは何も知らないのです。
お母さんからその事を隠すのは簡単ではありませんでしたが、お医者様もウイリアムも上手くやってくださいました。
お母さんから、こちらに来ると言う電報をもらったときは、絶望しました。
お父さんがお母さんを止めようとしたことは知っています。
お母さんがこちらに来たことは、ある意味では、私たちにとって生活を立て直すために、良いことだったのです。
私は、モプシーが私だけのものだと感じ始めています。
彼女をお父さんにお見せできたらいいのに。
お父さんが私のお父さんでいてくれてうれしいです。
私の事は心配しないでください。
わたしは大丈夫です。
             あなたのバーバラより

ロドニーは、一瞬、この手紙を保存しておいていいものか逡巡した。
彼は、職業上、あまりにしばしば手紙を保存する危険性を見てきた。
彼が突然死亡した場合、ジョーンがこの手紙を読んで、不要な苦しみを味わうだろう。
彼女には彼女が自分で作った世界の中で幸せでいてほしい。
彼はバーバラの手紙を暖炉に焼(くべ)てしまった。
そうだ、みんな大丈夫だとロドニーは考えた。
バーバラもトニーもエイヴラルも。
彼ら3人は今私の手を離れている。
ロドニーは書類を取り出して、暖炉の右側の椅子に座った。

 「地主は貸借人が~に存在する農業用建物、土地および相続財産を受け取る事を許容し・・・」
かれは、読み続けて、ページをめくった。
「2個のトウモロコシを越える収穫物を、夏の休耕地以外からのいかなる耕地からも受け取ることを許容しない(注:ここの部分、私には意味が理解できませんでした)」

彼は手を緩めて、反対側の椅子を見た。
その椅子は、彼が子供たちとシャーストンが会う事が好ましくないことを彼女に説得した時にレスリーが座っていた椅子だった。
彼女は「結局彼は子供たちの父親です、そこにある物から逃げることから始まる人生とはどんな人生なんでしょうか?」
ロドニーは「彼女の言うことは理解できるが、同意はできない。」
彼と妻は子供たちに出来るだけの事をしてきた。
しかし、彼女の場合、子供に話した方がいいのか話さない方がいいのか逡巡するような倫理的な問題が有ったのだ。
そして彼女は話すべきだと考えた。
彼は、彼女が間違っていたと思っていたが、彼女の勇気は認めていた。
レスリーと勇気について議論した時の事を思い出した。
レスリーが彼の椅子に座っていて、彼女の髪が色あせた青いクッションで緑色に見えた。
「あなたの髪は茶色じゃありませんね、緑色だ」
これは彼が彼女に言った唯一の個人的な事だ。
彼女は疲れてはいても、ジャガイモの袋を肩で担げるほど強い。
彼女について思いだせることは、ロマンチックなことではない。
愛とは何だろうか。
彼女が椅子に座っているのを見て、青いクッションの彼女の緑の髪を見て、平安と充実を感じた。
彼女が、「私は今コペルニクスの事を考えているの」と突然言ったときの様子。
コペルニクス?
世界の権力と妥協して、検閲を通るように神への忠誠を本にして書いたあの、世界を違う形だと考えたお坊さん。
彼は、少なくとも一度は、彼女に愛していると言うべきだったのではないのか、と考えた。
その必要があったのだろうか、一緒に、しかし離れて、あの10月の日の光の中のアシェルダウンで座っていたあの日。
お互いに別の方を見ていた。
彼女は「しかし、あなたの永遠の夏はあせない」と呟いた。
そのとき、その使い古された引用句の意味を、彼は理解しなかった。
 しかし、毎日そこに座って彼と話をした、最後の6週間。
勿論、空想の中でだけど。
空想の中のレスリーは、彼女の横に彼のための椅子を用意してくれて、「永遠の夏はあせない」のだ。
彼はもう一度、契約書の書類に目を落とした。

「そして、すべての点で、善良な意思を持って当農場を保持しなければならない。」

 ドアが開いて、ジョーンが入ってきた。
「ロドニー、電気を付けないとだめじゃないの。いつもそうやって、目が悪くなるじゃないの、ちょっとスイッチをひねればいいだけなのに。私がいないとあなたはダメなんだから。」
「いつか、あなたが、叔父さんの申し出を断って、農場をやりたいって言ったときの事を、覚えている?」
「覚えているよ。」
「私が止めたのを、あなたは感謝しているの?」
ジョーンはつねに、私にとって良い妻だった。
「ところで、僕がバグダッド旅行を羨ましがっているのは知っているよね」
「面白かったけど、あんなところに住みたいとは思わないわ。」
「砂漠はどんなふうだった?すばらしいんだろうなあ、強い光、はっきり見えて、素晴らしそう・・・」
ジョーンは彼の話をさえぎって「ひどいものよ、何もないんですもの」
彼女は、部屋を見まわして「そのクッションはひどく古くなっているわね。新しいのを買わなくちゃ。」
変えない理由は何もない。
シャーストンは教会の墓地の大理石の墓碑の下にいるのだ。
ジョーンは歩き回って部屋を片付けた。
確かに、この6週間は、部屋は片付いていなかった。
「休日は終わった」とロドニーがつぶやくと、「なんて言ったの?夢を見ていたんじゃないの?」
彼女は、壁の絵に目を止めて「これは何?新しい絵?」
「ハートレーのセールで買ったんだよ。」
「コペルニクス? 価値がある物なの?」
価値とは何だろう。
「可哀そうなシャーストン夫人」と言うが、彼女は悲しんではいなかった。
勇敢に人生を歩いていたのだ。
彼女は賢くて有能で、いつも忙しくしている成功者なのだ。
彼は、急に、彼女がかわいそうになった。
「可哀そうな、小さなジョーン」と彼はつぶやいた。
「可哀そうってどう言う事?私は小さくないわ。」
「可哀そうなジョーン、僕がここにいるよ。」
「私は一人じゃないわ。あなたがいる。」
「そう、君には僕がいる。」
しかし、彼はそれが嘘だと知っていた。
君は一人なんだ、しかし神様、どうか彼女がその事に気が付きませんように。

 『完』


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