「春にして君を離れ」アガサ・クリスティ 第5章

「春にして君を離れ」アガサ・クリスティ 第5章 
“Absent in the Spring” by Agatha Christie
https://www.pdfdrive.com/absent-in-the-spring-e199881914.html
Chapter 5
その日の午後と夕方はうんざりするくらいゆっくりと過ぎて行った。
日差しがある間は外に出たくなかったのでレストルームに座っていたが、30分ほどで寝室に戻ってスーツケースの中の整理をした。
それが終わったのは夕方の5時だった。
レストハウスにじっとしているのは気がめいる。
なにか読むものか、せめて知恵の輪でもあれば・・・
外はと言えば、鶏と有刺鉄線の囲い、ああ、いやだ、いやだ
鉄道の線路に沿って15分も歩かないうちに、味気ない気持ちになった。
暗記している詩を声に出して言ってみた。
「慈悲は義務によって強制されるものではない、天より降りきたっておのずから大地をうるおす 恵みの雨のようなものなのだ)― 『ベニスの商人』 第4幕第1場」
次の句はどうだったかしら・・・思い出せなかった。
「太陽の熱を恐れることはもうない」これも、シェークスピア

もはや灼熱の太陽も怖れるな
怖れるな 激しい冬の嵐も
この世の務めを成し終えた汝は
故郷へと戻り 報酬を受け取るのだ
輝ける若者も乙女たちもみな
煙突掃除夫のように 塵にかえる

ロドニーにシェークスピアを暗唱してあげていたことを思い出した。
シェークスピアの「愛の讃歌」を感情こめて朗読すると、ロドニーは「夏の荒々しい風は可憐な蕾を揺さぶるし、それに余りにも短い間しか続かない」と、つぶやく。
(この句の前に、君を夏の一日と比べてみようか、君のほうが素敵だし ずっと穏やかだ、と言う句がある)
彼はなぜこの句を引用したのかしら、あの時は10月だったったのに。
かれが、このシェークスピアのソネットの話をしたのは、彼がシャーストン夫人と座っていたのを見た正にその日の夜だった。
数日して、彼は「この深紅のシャクナゲってこの季節に咲くんだっけ?」と聞いた。
「普通春に咲くんだけど、秋が暖かければ咲くこともあるのよ」
「愛しい5月のシャクナゲ!」彼がつぶやき、「違うわよ、3月!」とジョーン。
それ以降、この深紅のシャクナゲは彼のお気に入りになった。
いつも、この大きなシャクナゲの花のつぼみをスーツのボタン穴に挿していた。
彼女が教会からの帰り道、彼が教会の墓地に立っている彼を見て、「こんなところで何をしているの?」と聞いた。
「僕の墓碑銘に書く言葉を」。
見ると、シャーストン夫人の新しい墓だ。
「もしあなたなら墓碑銘にどう書いたの?」
「聖書の詩篇に「あなたの御前には喜びが満ち、」みたいなのがなかったっけ?」とロドニー。
「彼女のではなくあなた自身のお墓に、よ?」
「主は羊飼い、主はわたしを青草の原に休ませる。」かなあ。
「その天国のイメージって、ぼんやりしてない?」
「じゃあ、君のイメージはどんなものなんだい?」
「みんなが生き生きと周りの世界をより良くより美しくしようとしているイメージよ」
彼は笑いながら「僕には、緑の谷、羊飼い、・・・ ばかげた考えだと君は思うだろうけど、事務所に歩いて行く途中考えるんだ。
いつも通る道からちょっとそれて、いつもは見えない谷間に入り込む。
君は騒がしい通りからいきなり静かなところへ入り込んで、びっくりして、「私はどこにいるの?」というと、みんなが、おだやかに「あなたは、死んでいたのですよ」とあなたに言う。」
「ロドニー! だいじょうぶ?病気じゃないの?」
あれが、彼の精神状態に気付いた最初だった。
彼が2ヶ月ほどコーンウォールの療養所で療養する事になった。
しかし彼女はあの教会の墓地での一件まで彼が過労である事に気が付かなかった。
あの帰り道、彼女は色々彼に話しかけたが、彼は「僕は疲れたよ、いつも勇敢でいられるわけじゃない・・」
それからたった一週間ぐらいで、朝起きられなくなり、医者を呼んで、ついにトレベリアンのところで療養する事に。
電話も、面会もできないし、子供たちはこうなったのがまるでジョーンのせいであるかのように言うし、ひどい日々だった。
「お母さんがお父さんを働かせすぎたんだ。」とトニー。
「落ち着きなさい、トニー」とエイヴラル。
アヴェリルはいつも冷たかった。
バーバラは末っ娘だったので「お母さんはお父さんに対してずっと残酷だった」と言う。
「あなた、何を言っているか自分でわかっているの!このうちで一番大事な人がいるとすれば、お父さんでしょ。
お父さんが働かないと、あなたたちは学校にも行けないし、服も買えないし、ご飯も食べられなかったのよ。両親が子供たちの為にやるのは当たり前でしょう」とジョーン。
「お母さんが子供たちにしてくれた犠牲について考えてみたいものだわ」とエイヴラル。
「お父さんが、昔お百姓さんになりたかったって本当?」とトニーが聞く。
「お百姓さん?でも弁護士の家庭だったので弁護士になったのよ。あなたもその方面に進んでいることに誇りをもつべきよ。」とジョーン。
「僕はその方面には行かないよ、東アフリカに言って農業をやりたい。」
「あなたは長男なんだから弁護士になりなさい。」
「僕は弁護士にはならないよ、お父さんは農業をやって良いって約束してくれたよ。」とトニー。
勿論、ジョーンにも、突然父親が病気に、それも、精神障害、などと言う病気になったというこの状況に陥った子供たちの気持ちが分からないわけではなかった。
身近にいる母親をスケープゴート(贖罪の山羊、生贄)にしたのだ。
ロドニーのいないあの頃は家族にとってつらい不幸な時期だった。
子供たちは難しい年ごろ、バーバラはまだ学校に行っていたし、エイヴラルは疑り深い18歳、トニーは毎日近くの農場に入りびたり。
考えてみると、不愉快な事は全て私が引き受けてきたのだわ。
バーバラが、まわりにハーリー譲の様な良い娘がいるのに、あんな悪い子たちと付き合うのか信じられなかった。
エイヴラルの他人を冷笑する態度もたまらなかった。
子供を生んで育てるってことは報われない仕事ね。
詩を暗唱しながら心地いい砂漠の散歩をしようと思っていたのに、辛いことばかり思い出してしまった。
向きを変えて、レストハウスに向けて歩き出した。
これって、閉所恐怖症の逆の、何て言ったかしら、A (agoraphobia)かしら?
全ての事は科学的に説明できると言うけれど、変な考えが次々に浮かんでくるのを止めるのは簡単じゃない。
わたしの嫌な考えは、ロドニーのテニス仲間のミルナ・ランドルフように、穴から出入りするトカゲのように、ロドニーの前をちょろちょろするのだ。
おもちゃ箱に入ったおもちゃの子供たちとおもちゃの召使い達とおもちゃの夫。
いいえ、ジョーン、おもちゃなんかじゃないわ・・・・だとすると私自身がおもちゃの妻で母なんだわ。
何て恐ろしい考え、何か詩を思い出して暗唱すれば、こんな考えは出て来なくなるでしょう。
「君と離れていたのは春もたけなわ・・・・」(シェークスピアのソネット)
次の句が思い出せなかった。
でも、最初のこの句が全てを説明しているわ。
ロドニー、あなたと離れていたのは春もたけなわ・・・・
春じゃなく11月だけど。
ショックが襲ってきた、これがあの夜、彼が言っていたことなのだ。
彼女を待っている何か、今彼女が気付いた、そのことから逃げたい事。
もっと心地よい事を考えよう。
バーバラに結婚式のドレスとか、ゆりかごでおとなしかったエイヴラルの事だとか。
トニーも彼女の期待通りの子供だった。バーバラだけが育てにくい子供だった。
しかし、みんなうまく育った。
「子供たちにちゃんと接してきたのかしら」と言う思いが彼女の心の中に浮かんできた。
エイヴラルが言った「お母さんは私たちに何をしてくれたの?お風呂に入れてくれたことも無いでしょう?、夕食を作ってくれたこともないし、髪を解いてくれたことも無い。みんなナニーさん(子供の面倒を見るお手伝いさん)任せ。他の事もみんなナニーさん任せ。」
「でも、私がナニーさんを雇ってあげたんじゃない。」
「お父さんがお金を払ったのよ」
アヴェリルは最後まで言い張る事はしなかったが、ジョーンを、最後まで反抗するよりもっと居心地の悪い気分にした。
ロドニーは笑いながら、エイヴラルと一緒になって「判決は、証拠不十分!」と言ったものだ。
ジョーンが「笑い事じゃないでしょう、子供はもっと素直じゃなきゃいけないでしょ」言うと、ロドニーは「エイヴラルは子供にしては、礼儀正しいよ。徹底的に相手を追い詰めたりしないもの、バーバラと違って」。
たしかに、バーバラは後で謝るけれど、感情を爆発させてひどい言葉をジョーンに投げつけるような子供だった。
「バーバラは親のごまかしを、見つけ出すような目聡い子供だよ」とロドニーが言うので、ジョーンは「ごまかし?!言っている意味が分からないわ」と気色ばんで言い返した。
ロドニーは「僕たちが良かれと思って子供たちにしてあげていることだよ。」
「あなたはまるで子供たちが奴隷ででもあるかのような言いいいかたじゃない?」
「そうじゃないのかい?僕たちの与える食べ物を食べて、僕たちの与える着物を着て、僕たちが言ってほしい事を言うのは、保護してもらう代償として当然のことなんじゃないのかなあ、だから大きくなって自由になるのを夢に描いてない日々を過ごしているのさ」と、ロドニーは、自由なんかないのさ、と言いながら肩を落として部屋を出て行った。
ああ、私の思いは、なぜあのビクトリア駅でのお見送りの時のロドニーの事に戻ってしまうのかしら。
そうじゃないわ、彼は召使いたちと寂しく暮らし、私の帰りを待っているに違いないわ。

⇒  https://note.com/minamihamaryu/n/nf6966748e476



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