見出し画像

天才コンプレックス「起」

前書き

今僕は、このタイトルと同じ”紙の本”を執筆している。このnoteに記すのは言わば自分バージョン。紙の本で他の人バージョンを執筆している。ほぼ自伝のような感じだ。ただ、特に書きたいことがある。”才能”や”努力”に対してだ。今、夢に向かっている人、大きな壁にぶつかっている人、挫折した人、諦めた人、何もしていない人、全ての人に読んでもらいたい。自分の名前を沢山の人に知ってもらいたいし、やるからには大きな反響が欲しい。良い反響も悪い反響も含めて。だから何でも良いので”反応”して欲しい。Twitter、Instagram、Facebook、全て南出 仁で登録しているのでコメントやいいねして欲しい。それでは”天才”南出の25年間、本編に入らせていただく。

積み重ねてきた25年

画像1

氏名・南出仁 身長165cm 体重62kg
生年月日・1995年4月20日
出身地・和歌山県和歌山市
家族構成・父、母、姉、兄、
職業・プロボクサー 日本バンタム級11位
アマチュア戦績43勝20敗 プロ戦績4勝1敗
全国高校選抜大会 準優勝。
国民体育大会 2度 準優勝。
全日本選手権大会 準優勝。


まずは生い立ちから。


和歌山県和歌山市という田舎に生を授かった。有名な物は梅とみかん。家の周り見渡す限りだいたい田んぼ。


”人間生まれた時は「0」”だ。


何も無い、真っ白なキャンパスからスタートした。


山を越えれば大阪という和歌山の端の方だ。三人兄弟の末っ子で内気な性格、そのくせ末っ子特有の甘えん坊。小さい頃の記憶があるのは空手を習い始めた5歳頃からだ。


家庭環境は特筆する様な事はないと思う。別に貧乏で困った事もなければ裕福だと感じた事もなかった。ただ、空手を「やらされていた」。それに尽きる。二つ上の兄が先に習い始めた。


5歳の時、20年前のことで未だに覚えているのだが、両親に「大会に出たらプラモデルが貰えるから空手をやってみるか?」と誘われた。1ヶ月とちょっと経った頃にその大会に出場した。


結果はあっさりと優勝だった。


そして、出場していた選手が1列に並ばれトロフィーを受け取る表彰式に出ると、僕の前に並んでいた選手が呼ばれた。僕もついて行こうとしたが止められた。前の選手は箱に入ったおもちゃを受け取り、


僕はトロフィーを貰って家に帰った。全然嬉しいとは思わなかった。



それから9年間、僕は空手を続けた。


…当然嫌々。


それこそ、泣きながら練習していた。自分の通っていた道場には2.3つ年上の子供が10人近くいたが皆んな親の方が熱心だった。


いつも見に来て怒られながら稽古をしていた。''スパルタ教育''だ。稽古は基本練習をささっと終わらせて主に組み手だった。二つ上の兄や年上の子は手加減してくれたが、ほとんど技術など無く、ただの殴り合いだった。父親に怒られるのが怖くて相手に立ち向かっていった。嘘みたいな話しだが小学校1年生の時に6年生の子を泣かした事があった。

画像2

画像3

画像4


出る大会にはほとんど優勝していた時期もあった。


誤解の無いように言っておくが、別に大した才能があったわけではない。
ただただ早生まれだったというのが理由だろう。


今から思うとあんなに小さい頃からああいうスパルタ教育をしている家庭は少なかったはずだ。家にもサンドバッグが吊るされていた。


他にも色んな種類のミットを父親が用意して家でもやっていた。


…やらされていた。


兄と一緒に真面目に稽古をしていた。僕は親がいないと真面目にはやっていなかったかな。しかし、カッコつける訳ではないがほんとに優勝しても嬉しいとは思わなかった。


でも負けず嫌いだったからとにかく負けたくなかった。


いや、違うか。…父親に怒られるのが嫌だったんだ。


しかし、小学校2年生か3年生ぐらいで道場が変わってからは一気に練習も頑張らなくなりすぐに負けるようになった。というのもその道場は親が口出しするのを嫌う道場だった為、親が道場に入るのを禁止していた。


そして勝てなくなり更にやる気を無くし遂に中学2年生で辞めさせてもらえた。親に、〜しなさいと教育された事はない。勉強も然り。空手だけが唯一の、〜しなさいだった。


更に、小学校高学年の2、3年間は柔道も習っていた。なんでやり始めたかは忘れたが、多分空手が嫌で柔道をすれば空手の練習をサボれると思ったに違いない。


そんな事はなかったが…。


ただ、柔道に関してはセンスがあったのを覚えている。ミュンヘンオリンピック金メダリストの野村豊和氏が先生だった。あのオリンピック3連覇、野村忠宏氏の叔父にあたる。寡黙な方でほとんど喋った記憶がないが背負い投げの打ち込み、投げるまでの形を、顔を縦に動かしたり横に動かしたりして先生は教えてくれた。


ほぼ声を出しての指導は無かった…。


格闘技は理屈や理論、机上の勉強よりも実践で覚えるのが良い場合もある。ましてや小学生に口で説明するよりも早かったのだろう。


野村先生のことは、小さいながら”とんでもない人”だ、と感じていた。


それは道着を掴んだ感覚で分かる。なんとも説明出来ないけどやっぱりオリンピックの金メダルは凄い。アマチュアボクシングを経験したから更にそう感じる…。


柔道を始めて数ヶ月で何年も先に柔道を始めていた同級生の子もすぐに追い抜かした。ただ、そんなセンスはなんの意味も無かった。試合で負けても悔しいとも何とも思わなかった。ただの遊びだったんだろう。


小学校生活はというと運動は出来る方で勉強の方も普通には出来た。近所に住んでいた田中力とは今でも親友だ。


力は男5人兄弟で家族ぐるみで仲良くしていた。力も末っ子で気があった。お兄ちゃん達はヤンチャなタイプだった。家に遊びに行くと有名所のヤンキー漫画は網羅されていた。「特攻の拓」「クローズ」「ろくでなしBLUSE」それに「岸和田少年愚連隊 カオルちゃん最強伝説」のビデオなんかも一緒によく見た。


同じ中学に通っていたから結局中学生になってからもよく一緒に遊んでいた。力はハンドボール部に入った。僕は全く興味は無かったから入らなかったが、空手を休む口実を作る為に陸上部に入った。たまたま練習を頑張っていた時期に顧問の先生がよく練習を見に来ていてキャプテンをやることになったほどだ。


最高成績は和歌山県で2位だ。四種競技という、110mハードル、砲丸投げ、走高跳び、400mの4つの競技の合計点を争う競技だ。器用貧乏の自分にはピッタリだった。どれをやっても1番になれなくて色んな競技を転々としていたらこの種目に辿り着いた。


…うん、最後まで何かをやり遂げる、やり通す事が出来ない人間だったんだな。


それでも近畿大会に出場したことはたいしもんだ。


その近畿大会に出場して驚いた!


皆んな身体の成長の早いもう大人のようだった。砲丸投げでは僕が最下位の8メートル。1位は15メートルだ。最終的な結果は18人中15位だった。高校で続けようなんて気も一切なかった。


ここまで僕は空手に柔道、陸上部と沢山スポーツをしてきているが、元々アクティブなタイプではない。空手を始める前の小さい頃は”レゴブロック”で遊ぶのが好きだった。レゴは高価なもので1万円以上するものもある。おじいちゃんおばあちゃんが買ってくれた。そのレゴで一日中遊んでいた。ほんとに文字通り一日中。


遊び方はまだ小さかったからお姉ちゃんと一緒に規定通りに組み立てる。組み立ててもらう。それからせっかく作ってもらったものを全て壊して新しいものを一から組み立てる。何かを見るわけではなくイメージして作る。今から思うとこれは小さい子供にとって凄く重要な能力だと思う。


他にもゲームなんかもハマると一日中やってしまっていた。親は特に怒ることは無かった。時間にすると一日10時間以上は確実にやっていたな…。


しかし、ゲームで培った集中力は僕の武器だ。難しいことを戦略立ててクリアする戦略的思考と根気はここで身に付けた…。レゴブロックで身に付けたイメージする能力も。


周りが努力していた時間は取り戻せない。プラスにポジティブに捉えられるのも僕の強みだ。


その後陸上部を卒業後、練習も無く空手もない。


力や友達と遊ぶ時間は増えた。


楽しかった。初めて”何もしない時間”を楽しんだ。


特に何をしたかも思い出せない。多分普通に遊んでいたんだと思う。だからすぐにそんな時間に飽きてしまった。しかも当時付き合っていた彼女に振られた。その後、中学3年生の11月1日にボクシングを始めたのはその直後だったような…。


ボクシングの話しをする前にこの話しをしなくては次に進めない。



遡る事陸上競技を引退する前の2年生の時期だ。いわゆる中二病の時期。


二つ上の兄の怖い先輩達は卒業した。万引きなどを周りの友達がよくやっていたが僕はしなかった。自分で言うのも何だが真面目で道徳的に悪いと思う事はやれない性格だった。いただきます、ごちそうさまでした、ご飯粒は残さず食べる。小さい頃両親が共働きでおばあちゃんに面倒を見てもらっていた影響で良い育ちをした部分が残っている。


だからタバコも一切やらなかった。


周りが皆んな吸っていたから一緒だけど、なんとなく吸いたくなかった。


でも”喧嘩はやってみたい''と思った。…沢山漫画を読んでいたから。


学校内で流行った時期があった。「あいつとあいつがやったらどっちが勝つかな」と。僕もやった。学校の近くの公園に集まって喧嘩をする。それこそ漫画みたいだった。近くに遊ぶ所はほとんど無い。持て余したエネルギーを吐き出すものがこの年代の子供には必要だ。皆んな刺激を求めていた。


だから沢山のギャラリーが集まった。覚えてないが30人ぐらいはいたと思う。結果は空手もやっていたので簡単に勝った。


学校に行けばその喧嘩の話しで持ちきりだった。


喧嘩に勝ったということ以上に嬉しかったのは自分が”目立った”ということだ。


それまで内気な性格で目立った経験なんてなかった。少し徒競走で1位になっていたぐらいだ。喧嘩をした時だけは目立てた。他校に遠征なんていう経験もした。ほんとに今から思えば馬鹿な話しだ。ただの馬鹿だった。



もちろんこっぴどく先生達に怒られた。


父親は喜んでいた。


普通だと考えられないかもしれないがそんな親もいる。


「今日は喧嘩した」「どうやった?」と嬉しそうに聞いてきた。


ここまでの話しだと親まで馬鹿にして「0」で生まれてマイナスになったぐらいの話だ。



家ではボクシングや格闘技の試合がテレビでやっていると必ず見ていた。兄は格闘技が好きだったしオタクみたいだった。雑誌のどこどこに書かれていた選手だとかを覚えているぐらい。


空手を習い始めた頃、格闘技のセンスは僕の方があった。僕だけが優勝して、兄が一回戦で負けることもよくあった。いつしか逆転していた。


やる気を無くして練習もやらなかったから当たり前だ。


運動神経は兄の方が良い。僕はスポーツが得意という訳ではない、好きなだけだ。


スポーツが出来る兄を羨ましく思ったのはボクシングを始めてからだ。兄も空手を辞めてから総合格闘技を始めた。総合格闘技とはパンチもキックも寝技も何でもありだ。だからパンチの練習をしたいと言って僕と同じボクシングジムで練習をしていた時期がある。


兄弟でスパーリングをするのだが、僕には自信があった。


パンチは空手をやっていた頃から得意でボクシングを始めてからもジムの人達が驚くように褒めてくれていた。兄は空手をやっていた頃から蹴りの方が得意だった。いざ、スパーリングをするとパンチが当たらなかった。スパーリングが終わってから悔しくてサンドバッグを叩きながら泣いてしまった。兄の車に乗せてもらってジムに来ていたのに、先に帰れと僕は兄にキレていた。その頃から僕は自分の才能やセンスに”コンプレックス”を抱くようになっていった、、、。





画像5

                


 …続く。

#ボクシング  #スポーツ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?