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「一貫性の呪い」

 「一貫性がない」「以前と言っていることが違う」など、他人の意見が変わることに対してネガティブな発言を、 SNS などに限らずさまざまな場で触れる機会が多い気がする。確かに、話し相手にあまりにも意見をころころ変えられてしまったら困惑するだろうし、立場が逆の場合でも、意見を変えてしまったら信頼を失うのでは? 恥をかくのでは? と思ってしまう人も多いのかもしれない。しかし、だからこそ考えてみたい。一貫性ってなぜ、こんなに重要視されているんだろう? 「意見を変えること」って恥ずかしいことだろうか?

 まず、「矛盾」というものを考えてみたい。「以前と言っていることが違う」というコメントは、過去と現在の発言内容の「矛盾をついている」行為ということが言える思うが、私たちは「矛盾をついている」とき、脳内で何か快楽物質のようなものが出るのではないかと思う。言ってみれば、「何かと何かがズレている状態に気付き、指摘することがすこぶる気持ちいい」のだ。だからこそ、その気持ち良さに惑わされることなく、一回立ち止まることが大切なのではないだろうか。一回立ち止まってうえで、何を表明し何を表明しないのかはその時に選べるのだ。

 一貫していなければならないという「呪い」は、自省する機会や組織の自浄作用まで奪ってしまう。おそらく、教育において「反省」が強制的に行われる機会が多いことが、「一貫性の呪い」を生んでいるように思う。強制されることは基本的にストレスだからだ。反省し、軌道修正することにあまりにもマイナスなイメージが無意識的に差し込まれているのではないか? 必要な時に必要な軌道修正が行われなければ、無秩序状態が訪れ、継続してしまう。私は当たり前のように「反省」が強制的である教育に対し、疑問符を投げかけたい。

 一貫していることが「悪」である、と主張したいわけではない。2つの発言が違うことを言っているようで、根っこの部分で同じであるということもままある。ただ、「一貫性」に囚われないでほしい。「矛盾をつく気持ちよさ」に惑わされず、いったん深呼吸してほしい。その矛盾は「言葉」というフィールド上のもので、本質にたどり着けていない表層的なものかもしれないから。

 間違えたことをしてしまったら「間違えてしまった」と自然に認識できる人が、多くの信頼を集める世の中であってほしい。ひとつひとつ検証し続ける土壌が当たり前にある世の中であってほしい。「一貫性の呪い」が無い世界で対話や議論が行われるようになったら、それはきっと「希望」になるだろうと思う。



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