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叱ったのは息子のためでなく私のためだった

昨日のことは忘れないようにしたいので、備忘録として書いておく。

息子そろそろ4歳。大きくなったなぁと日常の端々で感じる。この前まではいわゆる天使の3歳児で、何でもかんでも素直に聞いてくれたのに、最近では一丁前に口答えをする。

保育園のお迎え時、先生に挨拶をしなかった息子を叱った。息子はそっぽを向いて、投げやりに「わぁーかったよ!」と言った。

もう、その。台詞、抑揚、表情。それはまさしく私の、自分の母親に対する態度だった。

母には申し訳ないが、今まで幾度となくされてきた彼女の説教のうち、何ひとつとしてタメになったと思うことがない。私は毎度毎度口うるさく言われるのを不快にしか思っていなかったし、人の親になった今思い返してみても、苦々しさこそあれ感謝の念は一切わいてこない。

母から何か言われるたびに、私が言っていた「わーかったよ」「はいはい」。そして、母は私を小突き、「何?その態度」と詰め寄る。これがワンセット。

昨日思わず私もイラッとして、息子に言いそうになった言葉。それも、「何?その態度」。

恐ろしかった。知らず知らずのうちに私は母のようになっていた。なりたくないと思っていた母親像に、無意識のうちになっていた。

気付かせてくれた私にそっくりなキミ、ありがとう。反省して、私こそ自分の態度を改めるべきと思った。

昨日に関してみれば、挨拶をしなかったのが問題だった。私は、息子に挨拶をさせたかった。それは、息子のためだったか?よくよく考えてみると、表面上は「挨拶は大切だということを教えたい」かもしれないが、わたしの心の深層には「しっかり挨拶できる息子を先生に見せて誇らしく思いたい」という気持ちがあったのでは?

息子のためと言いつつ、実は、私は私の虚栄のために叱っていた。

そんなもんが心に響くわけがない。私が母にされてそうだったように、きっと私の説教も息子の心に届かない。このままだと、いつか私も母のように、どうして?と嘆き、あなたのことを思って言っているのに、と悲劇のヒロインさながらむせび泣くことになるのだろう。

まず、ちゃんとした子になってほしいと思う事をやめようと決めた。

社会に迎合するなかれ。それは、私も。

誰かには必ず言われるだろう。ちゃんと挨拶もできない子。しつけがなってない子。でも、それがなんだっていうの?今挨拶ができなくても別にいいじゃないか。挨拶が大切なんだと口で言うより、息子が自分でそう感じる日を待とう。今、できなくったって、他の人にどう思われたって、私がちゃんと息子を見ていればそれでいい。わたしだけが息子のいいところを知っていればそれでいい。

息子を自分のダシに使うのはやめよう。自分の自己実現のために息子を利用するのはやめよう。息子は息子で、私は私。誰に褒められようが蔑まれようが、ブレない自分でありたいし、あってほしい。

「あなたのことを思って言ってるのよ。」数えきれないほど言われてきた言葉。その子のことを思っているからこそ、私が今学ばなければいけないのは、黙って見守ることだ。




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