できれば子を産みたい

(2018.9.25の日記)

最近、私の中で、「人は全員死ぬ」という事実の受け止め方が変わってきたのね。

ようやくその事実を理解出来てきた、のか、はたまた理解出来なくなってきた、のか、その辺りのニュアンスはよくわからないんだけど。

毎日のように会っていた患者さんが死ぬ度に、物語の中の登場人物が死ぬ度に、「わ、やっぱり人って死ぬんだな」って思うのね。推しが今日も最高の状態で生きている、と実感する時、でさえも、「この人もいつか死ぬんだな」って考えるのね。

前よりヤケに、すぐ、安直に、そのことを考えてしまうというか、思考の内側において、その事実が近くにある状態。

これを前提として、話すんだけど、

そう、本題はここからなんだけど、

「私って死ぬんだな」と、昨日映画を観ながら考えていて。で、一緒に観に行った人もまた同様にいつか死ぬわけね、それを考えていて。

そうやって皆が老いて死んでしまう中で、子孫を残して死ぬことの、なんと安心することか、と思ったわけですね。

そうなってくると、子供って、本当に只々、親のエゴを理由に生まれてきてんだな、って気付いてしまって。めちゃくちゃびっくりしてしまったんですね。今更なんですけど。

「産めって頼んだ覚えねーよ」とか、反抗期の息子の常套句だけど、いや本当そうだよなみたいな、あの時期の思考ってヤケに論理的というか、暴論であると同時に正論ではあったりとか、ね、話逸れそう、

いや2X歳にもなって、だから私は親に感謝するつもりはない、とか、生まれてきたくなかったのに、とか、そういう話がしたいわけではないよ。

私は出来れば(※1)子供を産みたいんだけど、それが自分のエゴであるということを忘れてはいけないなと思ったんですよね。

自分が死ぬのが怖いから、自分は死んでないということにするために、子孫を遺す。まあ少なくともこれは今の私にとっての話であって、本当に産まれたらどんな気待ちになるかわからんけど。

そんな生命体が「お母さん産んでくれてありがとう」とか言ってくることがもしあっても、「いやいやこちらこそすまんね、ありがとう」と思い続けなければいけないなと思ったっていう、そういう話でした。以上です。

(※1…今のところ私の人生は未来の展望が悉く壊れていっているので、さもそれが叶うのが当然かのように未来を想像することは、そのルートを壊すことに繋がりそうで嫌なんですね。子供を産みたいと断言してしまうと出産する前に呆気なく自分が死んだりしそうなので、「出来れば」と付けました。謂わばジンクス避けですね。)

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