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【小説】色褪せた白 第四話

 昼休み、いつものように海原くんと食事をしていると、今日は彼の方から稔のことを切り出してきた。昨日は稔くんと何もありませんでした? と、社食のカレーライスを口に運びながら言う。私は少し言い出しづらかったものの、昨日の出来事を彼に話した。
「え。稔くん泣いちゃったんすか?」
 口に持って行こうとしていたカレーをいったん止め、彼は目を見開いた。彼のスプーンからぽたぽたとこぼれ落ちるルーを眺めていると、昨日の稔の涙が頭に過ぎった。
「ああ。私の前の妻に会ってしまって」
「そうなんすか……」
 ぱくりとスプーンを口に入れ、彼は酷く暗い表情をした。稔に同情してくれているのだろうか。海原くんは一度スプーンを皿に置き、カレーを見たまま言った。
「稔くん、大丈夫っすかね? 自暴自棄になって自殺とか……」
「まさか」
 そこまでのことはしないと思う。いや、そう思いたい。もしそれが理由で自殺したとなれば、原因は全て私にある。妻との離婚の原因である私は、ずっと稔に恨まれてきた。私がもっと強ければ今のような状況にはならなかったかもしれない。今さら悔やんでもどうしようもないが、後悔の波は定期的にやってきては私を飲み込んでいく。
「それはないと思うけど」
「そうすか? だって話を聞いている限り、稔くんのストレス尋常じゃないっすよ。どこの誰とも分からない人と一緒にいる時は分からないけど、両親が離婚して母が別の人と結婚して子供できてって、俺だったらどこか安心できる場所がない限り死にたくなりそうっすもん。稔くんが三藤さんの知らない誰かと一緒にいたくなる気持ち、ちょっと分かる気がするなぁ」
 そう言い、海原くんは少し表情を緩めた。それはどこか遠くを見つめているように見えた。
「安心を求めて、ってこと?」
「はい。だってそれ以外に安心できるところ、ないっすよね?」
 確かにそうかもしれない。稔は私といると決まって不機嫌になる。稔が一番安心できるのは、心を許している何者かといる時だけなのかもしれない。だが晴くんやめぐみちゃんといる時は? あの時も楽しそうにしていたじゃないか。わざわざ知らない人と遊びに行かなくても身近に友人がいる。それで十分じゃないか。
「でも、稔はその人に騙されてるんだよ。安心したらいけない相手なんだ」
 私がそう言うと、彼は黙ってしまった。指先でスプーンをくるくると弄る。先ほどから彼のカレーはあまり減っていないようだ。喉が通らないのか、ずっとスプーンを回したりして遊んでいる。私は自分のカレーを一口分だけ混ぜ合わせて口に入れた。
「今日の海原くん、何か変な感じするね」
「変?」
「何だろ、上手く言えないんだけど、なんか、やけに稔の肩を持とうとするというか」
 今まで、私はずっと稔の非行ばかりを話してきた。深夜か朝にしか帰って来ない、どこで誰といるのか言わないなど、稔のイメージが良くなるような話はほとんどしていない。先週は写真立てを投げられたことを話したし、彼は稔に不良少年というイメージしか持っていないはずだ。それが、今日は稔を責めるようなことは言っておらず、むしろ稔に同情している様子だった。
 私の言葉に彼は眉を下げて困ったような笑みを零した。
「そうっすか? 別に、思ったこと言っただけなんすけど」
 何か勘違いさせたならすみません、と彼はカレーを口に入れた。
「そっか。いや、何となく思っただけだから、気にしないで」
 少し疑い深くなっているのかもしれない、と彼の気分を害してしまったことを悔やんだ。全く相手に対する証拠が見つからないから焦っているのかもしれない。昨日、もしかしたら相手に会えたかもしれないのに、稔を追いかけたせいで突き止められなかったことも原因だろう。こんなことではダメだ、もっと冷静にならないと。残りのカレーを喉に押し込むように掻き込むと、私は海原くんより先に仕事に戻った。

「え、今から?」
『ええ。忙しいかしら』
「い、いや、大丈夫だけど……」
 突然のことに思わず歯切れの悪い返答をしてしまった。汗の滲む手を握りしめ、動悸が激しくなっている胸の内を押さえる。
 その週の土曜日、美代子から電話がきた。内容は、今から笠江町で少し話せないかというものだった。今の夫は来ないから二人きりということらしい。私は美代子の考えていることが分からず戸惑っていた。
『そう。じゃあ、一時に『Calm cafe』で待ってるわね』
 それだけ伝えると、美代子はすぐに通話を切ってしまった。時計を見ると十二時になったところだった。少し早いが、特にすることもない私は、落ち着かせるために早めにカフェへ足を運んだ。

 カフェには他に若い二人組の女性客とカップルと思われる高校生くらいの男女がいた。キラキラとした雰囲気に、自分が場違いなところへ来てしまったかのような気分になる。だが、永瀬さんにいつもの窓際の席に案内されると、少し気分がマシになった。今から美代子と話をするのだから、できるだけ気持ちを落ち着かせておかなければならない。だが一体何の話をしようというのだろう。私の過ちについては二年前に散々話した。それで美代子から一方的に離婚しようと言われて、私が稔を引き取ったのだ。そう言えば、どうして美代子が稔を私に預けたのか聞いていなかった。美代子が、「稔はあなたが育ててほしい」と言って半強制的に私に稔を預けたのだが、今思えば稔は美代子に育ててもらいたかったはずだ。母親の元を離れて嫌いな父親と暮らすのはストレスが溜まって仕方がない。美代子と話せるのはおそらく今日が最後だろう。今日のうちに聞きたいことは全て聞いておかなければならなかった。
 永瀬さんが水の入ったグラスを持って席に来る。私の前にグラスが置かれ、軽くお辞儀すると、永瀬さんはメニューが決まったら呼んでくださいねとだけ言い、また暖簾の奥へ戻っていった。
 いったんコーヒーだけを頼み、美代子を待つことにした。そうして三十分ほどぼうっとしていると、入り口の鈴がカランカランと鳴り、ため息が出るほど美しい私の前妻が姿を現した。カフェに美代子が入ってきた途端、周りの客たちが一斉に彼女を見た。永瀬さんも案内するのを忘れて一瞬立ち止まってしまっているのを横目で見る。美代子は窓際に座っている私を見つけると、にっこりと笑って前の席に座った。
「相変わらず端っこが好きなのね、浩明さんは」
 美代子の周りだけ後光が差し、周りに羽が待っているかのような幻覚を見た。目の前で見ると、私でさえ目が離せなくなってしまう。私のような男が、何故美代子のような美女と結婚できたのか、自分でも分からなくなってしまいそうだった。
 少ししてから永瀬さんが注文を聞きに来て、美代子はダージリンを頼んだ。そしてダージリンが来るのを待つ間、私はずっと彼女に聞きたかったことを質問した。
「稔のこと、どうして私に預けたんだ?」
 美代子は私を一瞥してから目を伏せると、突然昔話を始めた。
「稔って、浩明さんにすごく懐いてたわよね。覚えてる? 稔が遊園地で迷子になって、わたしたち必死に探して、それでやっと見つけたと思ったら、稔が一番に抱きついたのは浩明さんの方だったこと。多分、浩明さんが優しいからね」
 懐かしいわぁ、と美代子は思いを馳せている。だが、私はそんなことは覚えていなかった。離婚した後からの生活が辛かったせいか、幸せだった記憶をほとんど忘れてしまっている。確かに小さい頃の稔は純粋に可愛かったが、私の方に懐いていたかどうかなんて分からなかった。
「そうだったっけ」
「そうよ。少し大きくなって、ちょっと素直じゃなくなってからは分かりにくくなったかもしれないけど、稔はずっとあなたのことが好きだった。好きだったからこそ、あの日のことがとてもショックだったんでしょうね」
 あの日、というのは、私が過ちを犯した日のことだ。美代子はインテリアデザイナーをしており、仕事が忙しくて帰れない日が多かった。仕方のないことではあるが、帰っても妻がおらずご飯も自分で作らなければならないとなると、胸の中がぽっかりと空いてしまったような気分になってしまう。それは稔も一緒で、よく「お母さんまだ?」と言っていたのを覚えている。稔を宥めながらも、自分も寂しさを隠し切れない部分があった。ある日、同僚や先輩に誘われて一度風俗店に足を踏み入れ、そこで私は道を踏み外してしまった。その場の雰囲気に流されたことと、風俗嬢の一人が私を誘ってきたこと、美代子がここ数日帰ってこなかったりして話していなかったことなどが重なり、私は一人の風俗嬢と夜を過ごすことになった。美代子には飲み会が長引きそうだから近くのカプセルホテルに泊まって帰ると伝えたのだが、女の勘というやつなのか、翌日帰ると美代子にしつこく問い詰められた。私はすぐに謝り、事実を全て伝えた。だが、美代子は「なかなか帰れなくてごめんなさい。でも、そういうことをしたってことは、もうわたしに気がないってことよね」と言って、その日のうちに離婚届を書いてしまった。私は何とか美代子を説得しようと色々思案したのだが、結局ダメだった。夕方になると稔が帰ってきて、美代子は稔に離婚の話をしてしまった。まだ小学生だった稔は美代子に嫌だ嫌だと縋って泣いたが、美代子の気持ちが変わることはなかった。翌日のうちに離婚届は提出され、美代子は荷物をまとめて家を出ていってしまった。
 それから二年ほど経ち、妻は今、目の前に変わらぬ姿で座っている。
「この前会った時、稔のことを聞いたら、あからさまに嫌そうな顔をしていたから、多分稔と上手くいってないんだろうなって思ったの。稔が離婚で傷付いたから仕方ないかもしれないわね。でも、わたしは浩明さんなら稔と上手く暮らしていけるって思ってるのよ。小さい頃から懐いていたっていうのもあるけど、何より、浩明さんは感情的に怒鳴ったりしないし、稔を放っておいたりもしないから。稔は構ってもらうのが好きでしょう? わたしは仕事で帰れない日が多いから、育てるなら浩明さんの方が絶対いいって思ったのよね」
 そこで、永瀬さんがダージリンを運んできた。永瀬さんが遠ざかると、美代子は温かいダージリンを一口飲んだ。私も少しだけ残っているコーヒーを一気に飲み干した。
「でも、今は稔の方から私を避けるようになってしまって……」
「多分、あの日のことが原因で素直になれないんでしょう。大丈夫。ちゃんとゆっくり話す時間を取れば避けられることはなくなるわ」
 もう離婚して別の夫もいる身なのに、こうして私の相談を乗ってくれているのが信じられなかった。美代子は今の私をどう思っているのだろう。まだ気があるなんてことはないだろうが、稔のために戻ってきてほしいという思いはあった。日曜日に稔が泣いてしまったことを思い出し、ぎゅっと胸が締め付けられる。今、視界には映っていないが、美代子のお腹には確かに生命が宿っている。もう後戻りは絶対にできないのだ。
 私は思い切って美代子にも稔のことを話してみることにした。もう元に戻ることが不可能ならば、話だけでも聞いてもらおうと思った。何かアドバイスがもらえることを期待し、私は緊張を手のひらの中に押し込んだ。
「実は、今、稔は私の知らない年上の人と深夜まで遊んでるんだ。何か危険なことをしていないか、されていないか不安で、最近この町に足を運んで探したりはしてるんだけど」
 こんな話をして呆れられないか不安ではあった。育てるのが美代子ならばこんなことにはならなかったかもしれないのに。自分の不甲斐なさに涙が出そうになる。だが、美代子はそんな私を責めたりはせず、真剣な眼差しで聞いてくれた。
「相手に心当たりもないの?」
「ああ。いつもどこにいるのかも全然分からなくて」
「そう……」
 美代子は手で口元を隠して考え込んだ。昔からの美代子の癖だった。何か思うところがあったり、思いついたりした時にこの癖が出る。私は静かに美代子の言葉を待った。
「実は、今日はそのことで呼んだの。この前、稔が知らない男の人と一緒にいるのを見たから」
 えっ、と思わず声が出た。今まで全く足取りが掴めなかったのに、まさか美代子から情報がもらえるとは思ってもみなかった。私は少し身を乗り出して聞いた。
「い、いつ? どこで?」
「二日前よ。この町の商店街だったわ。夜十一時頃だったかしら。楽しそうに笑っていたから大丈夫だろうと思ったんだけど、一緒に入っていった店がバーだったから、怪しいなと思ったのよ」
 美代子はダージリンを一口飲む。その姿がやけにゆっくり見えて、続きが待ちきれない私は話を促した。
「それからは?」
「入ろうかとも思ったんだけど、もう夜も遅かったしね。家で夫が待ってるから、その日はそれだけで帰ったの」
 カチャ、という小さな音を立ててカップを置く。もう少し情報が欲しかったとも思ったが、何もないよりはずっとマシだった。私は美代子に心から感謝した。
「ごめんなさいね。あまり助けになるような話ができなくて」
「いや、ありがとう。それだけで十分だよ」
「ほんとに?」
「ああ。どこに行ってるのか分かっただけでも、すごくありがたいんだ」
「そう。よかったわ」
 にっこりと微笑む彼女は、本当に女神のように美しかった。この世に女神という存在がいるのなら、きっとこんな風に笑うんだろうなと思った。椅子から音を立てて立ち上がった美代子は、私を見てもう一度柔らかな笑顔を見せる。
「じゃあ、私そろそろ行くわね。近々遠くへ行こうと思ってるから、次いつ会えるか分からないけど、お元気で」
「そうか。美代子も元気で」
「ええ」
 それだけ言い、美代子はダージリンの分のお金を置いて出て行った。私はもう少しだけゆっくりしてから、自分の分と美代子の置いて行ったお金を払って店を後にした。永瀬さんは何か言いたそうに視線を泳がせていたが、結局何も言わなかった。
 それから、私は一度そのバーへ向かってみた。商店街にあるバーは一つしかなかったが、どこにあるかはすぐには分からなかった。看板などは見つからないし、商店街にバーなんかあっただろうかと、ぐるぐると歩き回ることになった。二十分ほど探し回り、ようやく見つけることができた。ぽっかりと空いた細い空間に階段があり、そこを下りていくと看板と扉がある。私は行ったことがなかったから、もしここにいつもいたとすれば見つからないのも頷ける。バーに行っているだなんて考えもしなかった。そのバーで稔は何をしていたのだろう。お酒を飲んでいた? いや、帰ってきた稔は赤くなかったしお酒の匂いもしなかった。では、お酒ではないとなると、ただバーで話していただけだろうか。ソフトドリンクを飲みながら談笑? どうしてわざわざバーを選んだのだろう。よく分からない。まだ分からないことが多すぎる。まだまだ調べなければならないことは残っている。
 私はバーの場所と営業時間だけ確認し、すぐに帰路に着いた。バーは夕方五時から早朝五時まで営業しているようだった。

 土曜日の昼二時過ぎ頃は人が多い。ちょうど昼食を終えて買い物などをする人が多いのだろう。私は結局ほとんど食べなかったし、帰ったら何か口に入れよう。周りの人を軽く観察しながら、直線の道をひたすらに進んでいく。
 今日の夕方に一度バーに行ってみるか、と考えながら商店街の外へ向かって歩いていると、後ろから走ってくる音が聞こえた。それは徐々に大きくなってきて、私の真後ろ辺りまで来たとき、大きな声が私の耳に響いた。
「待って!」
 それは私のよく知る声だった。振り返ると、ぜいぜいと息が上がっている稔と目が合った。顔色がすこぶる悪い。私の袖の裾を引っ張って今にも泣きそうな顔をしている。私は稔を見つけたことよりも、稔の反応に動揺していた。今まで触れるどころかほとんど会話すらなかったのに、稔は私の服を掴んで離さない。それどころか、稔は私に縋るような目を向けている。私に助けを求めているのだ。
「稔?」
 状況が呑み込めず、すぐには反応できなかった。稔は顔を伏せて袖をさらに強く握っている。そして私の胸にぎゅっと顔を押し付けた。体が震えているところを見ると、泣いているのが分かった。私は必死に落ち着こうと思いながら、優しく声をかける。
「どうした?」
 稔は顔を上げない。胸元がじわじわと濡れているのを感じ、私は黙って見守ることにした。何があったのかは分からないが、何かがあったのは確かだ。稔の背をぽんぽんと叩いて宥めようとするが、やはりすぐには泣き止まなかった。稔は私の服に顔を押し付けたまま動かない。時間にして一分ほどだっただろうか。胸の中で泣き終わると、稔はやっと顔を上げて私を見た。
「助けて。お願い、一緒に逃げて!」
 そう言って私の手を取ると、私を引っ張るようにして走り出した。周りなんて何も見えない。建物や人が混ざり合って後ろの方へと通り過ぎていく。稔の背だけをひたすら追いかけ、背に向かって少し大きな声で語りかけた。
「一体何があったんだ?」
「後で説明するから! 今は早く!」
 稔の力は思ったより強かった。少し痛いくらい強く掴まれた手首を見ながら、稔に頼られていることを改めて実感して顔が火照った。勝手に口端が上がってしまうのを必死に抑える。どうか稔が後ろを振り向きませんようにと願いながらも、アパートに着くまで私の表情はずっと緩みっぱなしだった。
 アパートの部屋に無事辿り着いた時には、私は肩を上下させて息が上がっていた。こんなにも走ったのは何年ぶりだろうか。慣れない運動をしたせいでなかなか呼吸が整えられなかった。リビングのソファに二人とも腰かけると、私は肩で息をしながら話しかけた。
「み、稔、何があったのか、教えてくれないか」
 稔はすぐには口を開かなかった。どう言おうか考えているのか、何度も口を開閉している。泣いて赤く腫れた目を泳がせていたが、決心がついたのか、稔はゆっくりと声を出した。
「何か、突然押し倒されて、カメラを構えられて」
 ぎゅっと両手を太腿の上で握り締める。その手は細かく震えていて、とても弱弱しいものに見えた。一瞬包み込んであげたくなったが、考え直して引っ込める。今はまだその時ではないと思った。
 稔は何かを抑えるように目を強く瞑る。
「怖かった、から」
 その声は酷く震えていた。これほどまでに怯えている稔を見るのは久しぶりだった。それほどまでに稔は怖い思いをしたのだろう。私は稔が何をされそうになったのかが分かり、いっそう相手のことを強く恨んだ。
「カメラって……」
 稔はじっと絨毯を見つめている。稔も自分が何をされそうになったか分かっている。分かっているからこそ、酷く怯えて逃げてきたのだ。逃げられて良かったと心の底から思う。逃げられなかったら、稔はさらに深い傷を負うことになっていただろう。
「多分、思ってるやつで合ってると思う」
 小さな声だった。思い出しているのか、膝を抱えて縮こまってしまった。どこでどういう風に撮られそうになったのかは分からないが、そんなことはもうどうでも良かった。今は何より、その相手を見つけることが最優先だ。これはもう事件なのだから。
 私は体を小さく丸めている稔に目線を合わせるように少し背を丸める。
「どうして今まで逃げなかったんだ?」
 そんなことをする奴ならば、これまでに何か怪しい雰囲気があったのではないかと思う。最初から稔にそういうことをするつもりだったなら、いつにしようかと悩みながら接していたに違いない。何度かこういう目に遭っている稔なら、そういうのには敏感なはずだ。そう思ったのだが、稔からの返答は意外なものだった。
「今までは普通だったから。普通に買い物したり、食事に行ったり。そういう感じとか一切なくて。みんな、すごく優しかったんだよ」
 そう話す稔は苦しそうだった。喉の奥に抑え込むような掠れた声で言う。商店街で泣いてしまったが、今でもまだ泣きたいくらいだろう。毎日のように一緒に会っていた相手がそんな奴だったなんて、まだ中学生である稔には受け止めきれないほど辛いはずだ。
「何で優しくしてくれたんだろ」
 ぽつりと呟く。その声は空気の中に溶けて消えてしまうくらい小さかった。
「それは……」
 多分稔を油断させるためだ、とは口にできなかった。稔は本気で相手のことを信じていたようだったから。信じていた相手に裏切られるのは、すごくショックだったと思う。私が浮気してしまった日のことを思い出す。あの時、稔は今と同じくらい辛かったのだろうか。多分そうなんだろう。稔に嫌われてしまったのは仕方がないことだった。
「とりあえず警察に連絡するから、何か暖かいものでも飲んで休んでなさい」
「ん」
 稔はソファから立ち上がり、台所へ立って水を入れたやかんに火をかけた。ティーバッグと牛乳を取り出したのを見ると、ミルクティーを作るのだろう。稔は滅多にミルクティー以外の紅茶を飲まない。甘いものが好きで、幼い頃から渋みのある飲み物は好まなかった。稔の様子を確認してから警察へ連絡するため家の電話を取る。一一〇、と数字を押そうとした時、背中から稔の声が上がった。
「わ、ど、どうしよう」
 突然稔が慌て出す。振り返ると、稔は台所で振動しているスマホを眺めていた。誰かから着信がきているようだった。見なくても誰から来ているかは反応で分かる。稔は手の上で震えているスマホの画面をタップするか迷っている。私は手に電話機を持ったまま静かに放っておきなさいと言った。
「そんなもの、無視すればいい。応えたら碌なことにならない」
「それはそうだけど、何か、嫌な予感がして」
「嫌な予感?」
 うん、とスマホの画面に目を落とす。不安げにスマホの画面を見つめる稔を見ていると、本当に稔の言う嫌な予感が当たってしまうような気がした。一度電話を置いて稔の傍へ近寄ると、稔は画面のすぐ上に指を浮かせて今にも画面をタップしようとしていた。その指はよく見ると微かに震えている。
「出なかったら何かで脅されたりとか、そういう」
 稔の声は小さく震えていた。確かに、相手が脅迫してくる可能性はあるかもしれない。計画的に稔を利用しようとするような相手だから、何が何でも稔を取り返そうとするだろう。だが、こちらも稔を渡すわけにはいかない。例え脅されたとしても、稔を相手の元へ行かせはしない。稔は私が絶対に守ってみせる。
「大丈夫だ。もし脅されたら父さんに言いなさい。何とかできそうだったら何とかするから」
 稔が顔を上げて私を見る。その瞳は不安そうに揺れていたが、きゅっと口元を閉じると瞳の揺れは治まった。大きく頷き、稔はスマホの画面をタップする。
「わかった。じゃあ出ない」
 稔が画面をタップすると、やっと振動は止まった。まだ不安なのか、稔はスマホをじっと見つめている。相手からメッセージが来ないかと恐怖しているのだろう。
 ヴー、と音が鳴った。稔の手の上だ。私と稔の目線が一点に集まる。一瞬動きが止まったが、稔は恐る恐るスマホの画面を見た。すると、短く悲鳴を上げた。
「どうした?」
 稔を見ると顔面蒼白で、浅い呼吸になっている。スマホを自分の胸の前で包み込んでぶるぶると震え出した。
「み、稔、大丈夫か?」
 稔は未だ震えが止まらず、遂にその場にしゃがみ込んでしまった。一体何が送られてきたのか分からない。けれど、恐怖で動けなくなるような内容が送られてきたのは確かだ。
「稔、何が送られてきたんだ?」
 稔はしゃがみ込んだまま顔を横に何度も振った。小刻みに震える背中が聞かないでくれと訴えているように見えた。私に知られたくないような内容らしい。無理に聞き出すような真似はしたくなかったから、それ以上は何も言わなかった。
 稔の上半身がびくりと震えた。稔がゆっくりと顔を上げると、スマホが振動しているのが分かった。稔は目に涙を浮かべながらも、今度はすぐに画面を押して耳に当てた。
「……はい」
 私は静かに行方を見守った。今、相手に私が稔の傍にいると知られるのはあまり良くない。私を脅しに使ってくるかもしれない。じっと息を殺し、稔の反応を伺った。
 稔ははい、と小さく返事をしながら時折肩を震わせている。相手から何を言われているのだろう。脅されているのだろうか。脅されているとしたら、どんなことを言われているのだろう。私が思いつく限りでは、あの時のいじめのことが一番脅しには使いやすいと思うのだが、それを稔が相手に話しているかは分からない。そんなことよりも、相手は稔に何を言うだろうか。戻ってくるように脅迫しているのかもしれない。そうだとすれば、稔は相手のところへ行こうとするだろうか。だめだ。そんなことはさせない。せっかくこうして無事に逃げて来られたのに、また稔を危険に晒すようなことはしたくない。相手の元へ行ってしまえば、きっと無事では済まない。何としてでも稔を引き留めなければいけない。
「わ、わかり、ました」
 稔は震える声で答える。相手に酷く怯えているようだった。やはり脅されたのかもしれない。耳からスマホを離し少しだけぼうっと画面を見つめてから、稔は虚空を見つめるような光のない目で私を捉えた。
「商店街に行ってくる。助けようとか、無駄なこと考えなくていいから」
 その言葉から、やはり戻ってくるように言われたのだと分かった。稔はもう、完全に諦めてしまっていた。自分が助かる道を探すことを放棄してしまっている。それほどまでに酷いことを言われたということか。だが、私はまだ諦めたつもりはなかった。
「何を言われたんだ?」
「バーに来いって。分かってると思うけど、もう警察には言うなよ。バレたらどうなるか分からないんだから」
 そう言って私から視線を逸らす。私はそういうことを聞いたのではなく、脅された内容を聞きたかったのだが、稔はそうと分かっていながら話を逸らそうとしたように思えて、私は無理には聞かないようにした。稔が話そうと思ったときに話せばいい。
 警察に言ってはいけないのならば、警察じゃなければいいと思った。すぐに浮かんだのは永瀬さんに相談することだった。永瀬さんなら、何か稔を助ける方法を教えてくれるかもしれない。
「まだ何とかできるかもしれない。頼りになる人がいるから、その人に相談して」
「今すぐ来いって言われてるんだよ。遅くなったら何されるか分からない」
 私の言葉を遮り、稔は私をきつく睨んだ。それは怒っているのではなく、怯えているのだった。これからどうなるか分からない。絶対に無事では済まないから、最悪な結果にはならないようにしようという後ろ向きな考えにシフトしてしまっている。助かろうとは考えないのか。まだ間に合うかもしれないのに、それは早すぎるんじゃないのか。
「でも行きたくないだろ。行けば何をされるのか、自分でも分かってるんだろ?」
「分かってるよ。でも行くしかないんだ。行かなきゃ、俺……」
 俯き顔をくしゃっと歪ませる。行かなければどうなると思っているのだろう。私には見せてくれなかったが、スマホで言われたことが関係していることは明らかだった。稔が言いたがらないということは、私の知らないことなのだろう。そこについて詮索するつもりはないものの、稔がそこまで恐れることが何なのかは知りたい気がした。
「今すぐに来い、って言われただけなのか? 時間とかは?」
「カップ麺ができる前に、って」
 何だその言い方は、と思ったが、とにかく三分くらいで来いと急かしているのだろう。ここから商店街までは車でも三分はかかる。三分以内などほぼ不可能だ。だが、私は限界まで足掻くつもりだった。できることは全てやっておきたい。稔が相手のところへ行かないで済む方法が何かあるかもしれないのだ。
「本当に少しだけ待ってくれ。お願いだ」
 稔の目を見つめて頼み込む。稔は数秒間首を振らなかった。迷っているようだった。早く行かなければいけない、でも行きたくない。何か案があるのなら、と思ってくれているのかもしれない。
 数秒後、私の気持ちが伝わったのか、稔は本当にちょっとだけだからねと言ってくれた。ありがとうと言い、すぐにスマホから永瀬さんへ電話を掛ける。彼ならきっと何かしらアドバイスをくれるだろう。二回のコールの後、永瀬さんは出てくれた。
『はい』
「あ、すみません、今時間大丈夫ですか?」
 時間はない。手短に説明する必要がある。永瀬さんが今忙して話せないとなるとどうしようもなかったが、出てくれたということは少しくらいは大丈夫なのだろう。
『はい。ちょうどお客さんいないので。何かありました?』
「あんまり話せる時間ないんですけど、今まで稔が一緒に出掛けていた相手はやっぱり稔を騙していたみたいで、今脅されてバーに来いって言われてて。何かできることないかなと思ってるんですけど」
 詳しいことまで話す時間はないと思い、簡潔に説明した。急にこんなことを言われたら普通驚くだろうし動揺するだろう。だが、永瀬さんは少しの沈黙の後、冷静な落ち着いた声ですぐに返事をしてくれた。
『通話してください。稔くんと電話を繋いで、向こうの状況が分かるようにしてください。早めに店を閉めてそっちへ向かうので、とりあえず電話だけは繋いでおいてください』
 その答えに、私は全身の毛が逆立ち手を強く握りしめた。それだけ? それでは結局稔が相手のところへ行くのは変わらないじゃないか。バーに行ってしまったら危険なのに、どうにか行かせないで済む方法が知りたかったのに、諦めるしかないっていうのか。
「そんなの、稔が危ないじゃないですか」
 怒りを露わにしないよう必死に声を抑える。行かせてしまったら、ほぼ百パーセント無事では済まないはずだ。だからどうにか行かせずに済む方法を考えようと思ったのに。それなのにバーへ行かせるしかないっていうのか。
『気持ちは分かりますが、今はそれしかありません。焦ってもどうにもならないので、落ち着いてください』
「落ち着けるわけないじゃないですか!」
 ついに、私は思い切り怒鳴ってしまった。
 稔が今にも危険な目に遭いそうになっているというのに、何もできずに相手に稔を渡してしまうのがどうしようもなく悔しかった。それに、稔を行かせて向こうの状況を把握するというやり方が、何だか稔を囮に使っているような気がして許せなかった。
「わざわざ稔を危険に晒せって言うんですか! それで向こうの状況が分かったって、助けられないと意味ないんですよ!」
「ちょっと」
 後ろから稔の声がした。振り返ると、私を見上げてきっと目を吊り上げている稔と目が合った。吊り上がった目の奥が微かに揺れ動いていて、恐怖を必死に隠しているのが見て取れた。
「早くして。遅れたせいで何かされたら、責任取れんの?」
 稔は片足でとんとんと床を叩いている。その言葉に体の熱が下がっていった。今私が熱くなっても意味がない。時間がないことは分かっているつもりだったのに、いつの間にか時間を忘れて躍起になっていた。そしてスマホからの永瀬さんの冷静な声が私を優しく宥める。
『三藤さん、稔くんは絶対に助け出しますから、今はどうか通話だけにしておいてください。今相手を怒らせるようなことは得策ではありません』
「……分かりました」
 二人の言葉で、ようやく心を穏やかにすることができた。まだ冷静になりきれてはいないものの、とりあえず今は通話だけにすることを受け入れた。相手を怒らせれば稔の身がさらに危険になる。そんなことになってしまうようよりかは、一度稔を渡してから救出する方法でも、稔が助かるならマシだと自分を説得した。
 永瀬さんとの通話を切り稔へ向き直る。
「稔、バーに入る直前に父さんと電話を繋いでくれ」
 これでどうにかなるかは分からない。稔の状況が分かるからと言って助けられるかは定かではない。やっぱり行かせるべきでないのではと考えてしまう。だが、今は永瀬さんのことを信じるしかない。恐らく何か案があるのだ。私のような一般人では思いつかないような方法を考えているのかもしれない。
「いいけど、バレないかな」
 稔は不安げに呟く。稔が誰かと電話を繋いでいると知れば、相手は怒って稔を殴ってくるかもしれない。そのことに怯えているのだろう。できるだけバレないようにと思っているが、相手が稔の服を探ったりすればすぐに見つかってしまう。危険であることは確かだった。
「分からない。けど、中の状況を把握するためにはそれしかないんだ」
 中の様子すら知ることができなくなれば、稔を助けることは急激に難しくなる。電話を繋ぐことは、稔を救出するための希望の光だった。だから、稔に何とか納得してもらって電話を繋いでもらう必要があった。
「分かった」
一度だけ小さく頷き、稔はスマホをジャケットのポケットに入れた。私はホッと胸を撫で下ろす。これで断られたらどうしようかと思った。
 とにかく早く行かなくてはと、稔はスマホだけ持って玄関で靴を履いた。私も稔の後に靴を履き、玄関を出て二人とも車に乗り込んだところで、稔が突然言い出した。
「別に、無理して助けようとしなくていいからな。死ぬわけじゃないと思うし」
 助手席に座り、私の方は向かずに足の上で手を揉んでいる。その言葉は私の頭を打つような強い衝撃を与え、暫く頭から離れなかった。
「何を言うんだ。何でそんなこと」
「無理に助けようとして失敗して、あの人達の怒りを買って殺されるよりかは、大人しくやられる方がマシってこと。さすがに死にたくはないし」
「それはそうかもしれないが、だからと言って」
「じゃあ聞くけど、俺を助けようと無茶して失敗して、それであの人達がキレて俺が殺されたら、どうすんの? 死んだらどうしようもないんだよ。俺は死にたくない。たとえ傷つけられたとしても、死ぬよりはずっとマシだよ」
 稔の言葉は私の胸を突き刺した。言葉が出なかった。稔を助けないと、とずっと思ってきた。どうにか無事に助けられる方法はないだろうかと必死に考えてきた。だがそれは間違いなのか? 助けようとして稔が殺されるような最悪な事態を招かないよう、何もしない方が良いというのか? 私が稔を無事に助けたいという思いは間違っているのか?
 その時、突然稔のスマホが鳴った。稔は慌ててスマホの画面をタップし、耳に当てる。
「は、はい。すみません、もうすぐ着きます。い、いえ、大丈夫です。はい」
 稔の様子を気にしながら車を出す。多分、早く来いと言われているのだろう。さっき考えていたことは一度忘れるようにして、運転に集中した。稔は通話を切ると私の方を向いた。
「ちょっと急ぎ気味でお願い」
 言われるまま、いつもよりスピードを上げる。いつもより運転が荒くなっている気がするが、そんな細かいことを気にしている場合ではない。時は一刻を争う。
 稔が少し俯き気味になっているのに気がつき、私は声をかける。
「何か言われたのか」
「警察に言ったんじゃないかって、疑われただけ。それだけだよ」
「そうか」
 他に何か言われたのでは、と思ったが、それ以上は深追いしないようにした。それからは一言も言葉を交わさなかった。
 湯雁町の緑の多い穏やかな街並みから、段々と笠江町の少し賑やかな風景へと移り変わっていく。その景色を眺めていると、これから稔が危険な目に遭うなんて考えられなかった。こんな穏やかで平和そうな町で事件が起こるなんて、誰も考えていないだろう。だからこそ、相手はこの町を選んだのかもしれない。事件とは無縁そうな町なら、今回のように簡単にターゲットを捕まえられると踏んだのだろう。
 笠江町の中の一際広い道の途中に商店街がある。その広い道にある駐車場に車を止めると、私と稔はバーまでの道を急いだ。

最後に

次で最終話になります。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

そしてこの年末に熱を出してしまいました……。
今年の振り返りを投稿しようと思っていましたが、難しいかもしれません……。

最終話も二日後とはいかない可能性があります。すみません……。

皆さまも体調には十分お気をつけください。
それでは、最終話もどうかよろしくお願いいたします。

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