人は「隣の芝は青い」と妄想してしまう
先日、旦那の恒例行事として、児童養護施設におもちゃなどを寄付に急遽付き添った。
私は学生の頃にそういう施設のことを見聞きしたこともなく、近くにあったわけでもなかったので、旦那さんと知り合って初めて詳しく聞くことになった。
届け先の施設の方と話をして、状況を伺ったりもした。
様々な事情から逃げた先での生活
児童養護施設には、家庭に問題を抱えた子供たちが保護されるために入る事になる。
主にはネグレクトや虐待から保護された子供や、親を亡くしたり、捨てられて引取先が無かった子供がそういうところで育つ。
悪い境遇から逃げてきた子供たちだから、当然精神的な問題やトラウマも抱えていたりする。
そんな事情を抱えた子供たちとそれを支える施設職員たち(福祉関係者)によって、生活が営まれる。
介護施設なども施設職員らとそこに介護されながら生活する人たちがいるという意味では同じだが、
子供たちはお金を払う払うわけではなく、国が子供を保護するために施設を用意し、主に寄付と国や市町村からの財源で賄われている。
子供たちは、学生時代は特に自意識もでき、同級生と比べたり、自分の不遇な状況を受け入れられなかったり、実の家庭でのトラウマが残ってしまうことがある。
施設によっては未だに体罰や虐待なども起こっていたりする。
それは介護施設や障害者施設でも聞く話だから、人が関わる限り起こり得る。
そんな中で、他人と比べたり、周りの大多数の親がいる同級生が家庭で当たり前に受けている幸せと比較してしまうという。
大人でさえも他人と比較しながら暮らして、苦しい思いをしているのに、生活や自分の進路を親や大人にある程度委ねざるを得ない子供の立場でその状況に甘んじるのは苦しいと思う。
親がいる事によって必ずしも幸せかは分からないが、施設の境遇にいる子供たちには他人の事情を理解する術がないから、尚更憧れが自分の境遇とのコントラストを明白にする。
実際に生活してみたら、施設での生活の方が楽しいと馴染める人もいるとは思うが、なんともいえない不安感を感じる子供も多いと思う。
時間が経ってみて分かること
私の旦那さんも幼少期に大変な境遇にいた人だ。
だから、大事にしてくれている親のいる子供が羨ましいという感覚にもなったと言っていた。
運動会で両親と重箱のお弁当を食べたり、おもちゃを好きに買ってもらったり、家庭でのご飯を食べられる子供が羨ましかったそうだ。
ともすれば、私は当時は両親揃っていたし、祖母と祖母の義姉がいて、賑やかではあったし、重箱のお弁当も食べていた。
だが、自分の家族に言い知れぬ気まずい空気感があり、大して有り難みも感じていなかった。
なんなら私も他の同級生の家族が羨ましかった。
もっと明るい家庭が良かったとすごくモヤモヤしたこともあった。
そして、またもう一方、私が最近付き添った施設は、とてもご飯のメニューがしっかりしていて、専業主婦の親でもいないとできないようなメニューでとても良いなと思った。
共働きの親が増えている一方で、季節感を大事にしたご飯を作ったり、ある程度時間のかかる料理を作れる家庭も減ってきていると思う。
出来上がりのクオリティはともかく、施設とはいえ、恵まれているものもあるのだろうと思った。
共同生活に慣れるのも悪くない。
歳の近い子供たちと生活するのも悪くないと思う。
隣の芝は青く見えるけれども、見てもいない、体験してもいない他人の人生や他人の視点は一生知る由もない。
私たちは、妄想の中の他人の人生と自分を比較し、苦しんでいるだけで、必ずしも自分の芝が悪いわけではないのだ。
人はストーリーで意味づけをする
施設が必ずしも悪くないし、親が揃っているのが良いわけでもない。
多分、一部か大多数の人たちはまだ、両親が揃っていることが大事だと思っているし、子供に良い思い出作りをしてあげようと必死になっていると思う。
しかし、有名な大学が出した研究発表によると、親が子供に与える影響で一番大きなことは、環境選びであることがわかっている。
決して、親の与えた物の多さや、親の教育熱心さなどでは、子供の人生に大きな影響を与えていない。
せいぜい遺伝以外は10%程度以下であるらしい。
確かに親に育てられた割に、親のことはよく知りもしないし、性格も全然違ったりしてあまり影響力は無いかもしれない。
とはいえ
「今の自分の状況はなぜこのようになっているのか?」を考えた時、親や周りの大人の影響は大きい。
環境は確かに親によって与えられた物だから、親から与えられた環境によって子供の幸福度は左右されると言えるかもしれない。
しかし、自己肯定感や鬱を引き起こしたりする原因として、ストーリーがある。
つまり、意味付けのことである。
私はどういう理由で今ここにいるのか。
その意味付けがネガティブになる人ほど、不幸なのかも知れない。
なんとか人に助けてもらって、生きられている…と考えるのか、こんなに辛いなら死んだ方がマシ…だと考えるのかなど。
長期的に自分の人生をストーリーとして捉えるほど、比較的悲観的なストーリーが出来上がると私は思う。
子供の頃は誰でもある程度は馬鹿だから、自分の生活を長期的な見方をすることが無い。
赤ちゃんの頃などは、今お腹が空いてるか、眠いか、気持ち悪いか、ぐらいしか考えていないから、先のことも過去のことも考えない。
大人になって、過去も出来上がり、未来のこともある程度予想が立てられるようになると、急に今の自分がボヤけてくる。
自分が長い人生の浮き沈みの中の一瞬である今にいると考えると辛くなる。
今は耐え忍ぶ時期だとか、今は楽しくなくても仕方ないとか、そんな諦めにも似た世界観を自分に押し付ける。
施設の話から脱線したが、
ストーリーによって、親元に居るのが不幸だと思うか、親元にいるのが幸せだと思うかの認識や、自分の境遇を長期で見るか、短期で見るかという違いが、幸福感において大きいのでは無いかと思った。
人生は、辛い経験は必ずしも未来にとって悪いことでは無いし、幸せな経験が後に余計な不幸を感じる要因になるかも知れないのだ。
でも、それはストーリーとして自分の人生を捉えるからであって、今現在を考えてみれば、今が不幸とも幸福とも判別は付かないだろう。
少なくとも今、お腹が空いていて、すごく寒さを感じたり、体調が辛くて苦しいのでなければ、大抵の人は今も十分幸せなのだ。
大人になってわかること
大人になって分かることは、
その時に受けた有り難みは未来になって、客観的に冷静に事実を見つめることができた時に初めて理解できるということだ。
子供の頃に受けていた有り難い出来事は大人になり、あるいは自分が親にならないと分からなかったりする。
親がしてくれたことを親に返して初めて知る。
他人がしてくれた好意が簡単じゃないことを知って初めて有り難く思う。
客観的な判断が本当の意味で出来るようになったり、自分がいかに恵まれて、何か素晴らしい運命に守られているのを知るのは、今を遠くから観察できるようになる日が来た時だ。
それまでは、これまでのストーリーや、事実無根の他人の人生の妄想との比較によって、今を幸せか不幸かと判断するのみだ。
その判断に一喜一憂してしまうのが人間でもある。
でも、今に対する意味づけは、あくまで今の判断でしかないということを色んな子供に教えてあげたい。
今の日本では、何故か人生の生き方にパターンが存在しているように思われる。
そう信じ込まされている気もする。
だから他人と比較し、未来のことを考えると悲観的になるのだと思う。
どうにも長期的に考えすぎる癖をつけられているように思う。
でも、今という時間も人生であり、自分の生きている楽しみを味わうための時間でもある。
未来に幸せになろうとせずとも、短期的な視点をもって、長期的な人生のストーリーに囚われずに生きることも必要なのだ。
過去や未来と今を比べる必要もないし、他人と比べる必要もない。
他人の人生を調べる暇があるなら、今の自分に関心を持った方がいい。
大人になるということは、ある意味食いつぶした過去が増えるということだけれども、その事によって幼い頃には見えなかったものが見えたりするのだ。
ただ無闇に未来は明るいなどと、私は楽天的ではないから他人に言うことはないが、
「未来から見れば今も必ず貴重な幸せな時間の一部であるから、今以外のことを一生懸命考えるな」と言いたい。
今を無視して、最適な答えを選ぼうとするよりも、必ず今の答えを出し続ける方が今も未来も幸せなのだと思う。
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