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自分で気付かなければ憐れな人のまま

私の個人的な話だが、よく人に頼られやすい。

確かに優しいと言われることが多い。
他人が言い難いことも代わりに伝えてあげたり、悩んでる時に話を聞いてあげたり。

とにかく頼られたり、甘えられると、しょうがないなと自分の余裕が有れば許容できる程度に許してしまう。

時には、相手のことを考えて耳に痛いことも言うし、本気で急所を抉ることも平気でやってしまう。

人は弱みを見せた相手を特別な存在だと思いやすい。
だから下手に優しくすることで好意だと勘違いされてしまうことも多い。勿論そんなつもりは無く、嫌われるのも厭わない。

私はそもそも嫌いな人とは100%連絡を断つ。
嫌いという程の害も無ければ、興味も湧かない相手にはまず連絡しないが意図的に遮断することもない。そんな労力を掛けるほどの相手でもないのだ。

暇なのか何度も連絡してきて、私が放置したりテキトーな返事をしても平気で話しかけてくる人もいる。
私は「あなたに興味ありません」とハッキリ言っているようなものだと思うのに、伝わってないらしい。

それくらいコミュ障なのか、寂しい奴なのか知らないが、察しが効かない、他人の意図に気付かない。
喋ったとしても、薄っぺらい奴が多い。
話したところで何も面白くないし、大抵エロい話とか、異性とか、他人の噂話くらいしかしない。

意外とそんな奴が世の中にはたくさんいるみたいだ。

正直見ていて憐れになる。
信頼できる友達も出来ないだろうし、異性と付き合えたとしてもつまらないから直ぐに別れる。
他人の事には関心があったり、噂話が好きだから、それを嫌う人は寄ってこない。

結局その人にいろんな問題があるのが透けて見える。
そんな状態になるまで、周りの人間に放ったらかしにされたんだな…可哀想な人。と思ってしまう。

明らかに手に負えない人、改善の余地が無い人は私も無視するが、本人も苦しい状態を抜け出したいと考えていたり、私自身がその人の幼い頃を知っていると、どうにか気づいてくれないかなと仏心(?)の様なもので、話をしてしまう。

私も苦しい時期があったから、求めるならヒントをあげたいというお節介なのかもしれない。

とはいえ、最後には逆ギレする人もいるし、どうなったのかを見届ける事はほとんどない。
私は根本的には優しいとは思うが、お見通しというように相手を読んでいるから、腹立たしく感じるのだろう。親に「だから言ったでしょう」と言われているかの様に腹が立つと思う。

私は少しでもヒントが得られればその人が今後なんらかの変化を得られる可能性が高まるだろうと考えていた。
それが何年後か、10数年後かは分からないが、勝手にそんな期待をしていた。

でも、よく考えてみれば、同じことを忠告されても変わらない奴らはいっぱいいる。
何なら家族さえ盛大に呆れ返らせる程、人間性に問題があったり、コンプレックスの塊だったりする奴もいる。

むしろそんな人ばかり私自身も見てきたし関わってきた。まともに話そうとしたところで話も通じなければ、聞く意思もなく地団駄踏んで喚く親戚も居た。

人間の言葉には限界がある。

その人が望むこと、関心があることを引き出したり、言葉で影響を与えることは出来るかもしれないが、
その人にとって何が問題なのか、何を意識すべきなのかの自覚が無ければその答えを得ることは出来ない。

RASが働くと言われているが、意識しないことは心に留まらないのだ。
その人が自分の欠点を痛感し、自分のヤバさに気付かない事にはわからない。

多分、そのヤバさに気づくタイミングが今まで皆無だったはずは無いだろう。

友達が居ないことや、心を開いて話せる相手がいないこと、他人との関係が続かないこと、仲良くしていた友達さえ離れていったこと、会社の中でも相手にしてもらえない、仕事でも尊敬されていない、など。

勿論それぞれ原因も改善すべき点も同じではないし、友達や遊ぶ人がいても問題のある人はいる。でも、本人が自分の問題に気づくしかない。

私はヒントになれば良いやと思って接していたけれど、自分でもこのヒントを与える行動は烏滸がましいと思っていた。
私が直接教えるべきことではないというか、敢えて言うなら天から教えられるべきことだと思う。

だから、不快な人だと感じたら、その感覚の通りに近付かないのがその人の為だと思い直した。
そういう人は不運な選択をしたり不運や悪い縁を引き寄せるから、本来関わると自分もトラブルに巻き込まれるから賢い人は近付かない。

私も憐れな奴だったし、そんな自分を悔やんでいた。育った環境や周りの人間や精神状態が影響しているのは否めないが、親ガチャという意味ではそんな不運もある。

そんな憐れな私はたくさんの不幸の中からちゃんとヒントを見つけて、自分を顧みることができた様だ。
それよりもその問題による苦痛から逃げ出したくなる程度には痛覚があったのだと思う。

過去の自分の境遇から他人に施しをする人は一定数いる。
でも、他人に施す方法は慎重に考えなければいけない。ただのエゴでしかないかもしれない。ボランティアの現実を見ればよくわかるだろう。

私は憐れな奴だったからエゴで何かしようとしていたし、何故その人がこうなったのかという興味で他人に介入していた。それは良くない手段だったということだ。

そして、憐れな奴は憐れな状況の中で気付くしかないのだ。

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