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中継地 #2

 知らない街を歩くことが好きだ。

 それは普段は覗きさえしない路地に迷い込んでみるだとか、いつもの電車をひと駅前で降りてみるとか、こぢんまりとした「知らない街を歩くこと」だったり、旅先の街をあてもなく彷徨ってみることだったりする。

 そこにはなんの感動も感慨も無い。
 言葉として「知らない土地の、ひとの営み」と唱えることはできる。ただその「知らない土地の、ひとの営み」が僕の感情に対して直接的になにかしらの作用を及ぼすことは少ない。

 それはもしかしたら僕の感情の動きが乏しいことが原因であり、知らない街を歩くことが感情を動かすという普遍的な作用はあるものの、知らない街を歩くことが僕の感情を動かすという局所的な作用はないだけかもしれない。

 しかしその作用の有無とは無関係に、僕は今日も知らない街を歩いていた。

 その街は僕の目にはどこか奇妙に映り、三泊四日の滞在のなかでその奇妙さの正体を見極めようとした。
 具体的な解答は得られていないし、そもそもそんなものがあるのかもわからないが、ひとつ思いつくことがあった。
 それは、「普遍的な街並み」というものが各人の心のなかに自然と形成されているのだ、という気づきだった。

 あえて言葉にする必要もないあたりまえのことだろうし、気づきというより再認識というほうが正確だ。

 これまでいくつかの知らない街を彷徨うなかで、たとえば郊外の住宅街、たとえば地方都市といった抽象的な形式ごとに、それを仮想的に具体化した架空の街並みが頭のなかで組み上がっていた。
 それには僕が生活していた「知っている街」の在りようが多分に影響していることは疑いようもない。
 そうであれば、ひとそれぞれに抱える「架空の街並み」はひとつとして同じものはないのだろう。

 海沿いの港町、山間の集落。言葉として抽象的な形式を伝えあうことは簡単だ。
 それが簡単なのは、言葉というプロトコルあるいはインターフェースの持てる情報量が少ないからだ。

 僕たちはそれぞれの抱える風景の情報量を落として言葉に変換して、それを相互に伝えあうことしかできない。それゆえにそれぞれの抱える風景の情報量を落とさずにそれを伝えあうことができない。

 そしてそれゆえに、僕たちはそれぞれに差異があるのだと思う。
 その差異の形もやはり、相違なく伝えあうことはできない。

 そこにある差異の形がわからずとも、そこに差異があることを認め合えれば充分だと思う。

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