📝Chain saw man のタイトルについて思ったこと+etc.

📝Chain saw man 、このタイトルについて、ふと想ったこと(ほぼ妄想)(第一部最終話までのネタバレわんさか)。
↪︎Chain saw man=「鎖(縁)はその者を観た」。

・はっきりと分かれている
・chain…鎖、そこから繋がりー縁を想起することも
・作中で鎖の描写がある
マキマの能力が開示された時、アキたちと自分を鎖の様なもので結んで束ねていた(臍の緒表現)。

チェンソーはその特性から、鎖ー繋がりー縁を切る、もしくは断つことができる。
マキマの、岸辺への話によると、チェンソーマンに食べられたものは、名前と共にその存在すら消滅する。従って、人々の記憶からも、歴史からも、文字通り忘れ去られる。(ただ、例外も居た。)



◯今思うことを総括して、Chain saw man=「鎖(縁)はその者を観た」。

これは、はじめ、チェンソーマンの方からの意味に受け取った。
つまり、チェンソーマンが殺すことで、もしくはチェンソーマンに食べられた場合はその存在、悪魔が居たことすら忘れ去られるが、「確かに見た(居た)」、と、存在の認知ひいては肯定を表現するのでは、と思った。

ただ、チェンソーマンの、この絵や天使の言葉にもあった通り、逆の可能性ーー
「縁(彼ら)はその者(男…チェンソーマン)を見た)」、
と、もしかしたこちらの方が強く、従って双方向に受け取ることが可能な様にも思った。

また、もう少し拡げて、読者…チェンソーマンを観た者ーわたしたちのこと、そしてこのチェンソーマンという物語自体が、「チェンソーマンを観た」、という風にも受け取ることができるかも。

意訳すると、チェンソーマン、そしてチェンソーマンという物語を我々は観た。

縁が彼らを導いた、という言い回しがある様に、チェンソーマンに関わった悪魔を含め、チェンソーマンに直接的間接的に触れた、ついては彼を知る(=居る)者すべては少なからず縁で繋がっており、その存在を肯定する(見・観た=居た)タイトル、という具合にも。

・また、ヒーロー性についても、
チェンソーマンは鎖を断つことができる、つまり所謂、悪を断つことができるため、従ってヒーローとも受け取れる。ただ、(チェンソーマン=ポチ太に)助けを求めた場合、チェンソーマンを呼んだ側も殺されてしまうので、あくまでも中庸の立場である感じがする。

これがデンジの人格をもった、いまのチェンソーマンなら、物語のなかで世間にそう呼ばれている通り、確かにヒーローかも。

・あと、マキマを食べても、岸辺たちが忘れなかったのは、やはり、チェンソーマンであっても、デンジとしての性格が強ければ、あるいはポチ太(チェンソーマン)を心臓としている場合は、先の「存在の喪失」には成らないみたい。

蛇足、+関係ないと思うけれど、クァンシの音に近い、クアンシーは「関係」を意味すると知り、先述のタイトルへの考えとも通じる様な気がして、なんだか想うところがあった。

追記12/17

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