「さて、小説でも書いてみるか。」“生き方”に挫折したワーママが、10年ごしの宿題に挑戦してみる。-2-
大人の夏休みの宿題的な感じで「小説を書く」という大学卒業時にできなかった宿題に再度取り組むという思いつき企画。
初めてみたものの、早くも、書かない可能性が70%くらいな気がしている。まあ、もう少し進めてみよう。
前回の記事はこちら↓
思春期は「創作スイッチ」だらけ
高校生の時に作った演劇の一つは、ルイスキャロルの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』へのオマージュだった。主人公のアリスが自意識の奥に潜っていって、キャベツを一枚一枚はぐように「ニセの自分」を脱ぎ捨てていったら、最後に何も残らなくて消えていく、という話だった。
自意識過剰な思春期の私は、理想の自分しか信じたくなかった。だから、現実の自分を「ニセものだ」と否定する癖があった。周囲に迎合して取り繕ってふるまう自分が許せなかった。全部嘘だ、と否定していくと、行きつく先は消えること。
本当に死ぬのは怖いけど、舞台上で消えるのは割と簡単にできる。公立だけど先進的な高校だったので、立派なホール(=劇場)があったのだ。劇場の価値の一つは、真っ暗闇を作れること。真っ暗闇のピンスポットに照らされた人物がいる。ピンスポットの光を絞っていって消してしまえば、人物は簡単に暗闇の中に消えてしまえるのだ。
作品を見た大人たちは、「高校生がこれを作るなんて!」と褒めてくれたけど、生意気にも「思春期だから作れるものだってことがわからないんだ。大人って鈍いな」と思っていた。今思えば、極端に怠惰な私に「今だから作れるものだね」なんて言ったら二度と作らないだろうから、あえて「将来に期待」みたいなニュアンスの褒め方をしてくれてたのかもしれない。
思春期には、感性が研ぎ澄まされていて、そこら中に創作スイッチがある。それに、周囲の大人たちが黒子のように守ってくれていて、かつ本人はそれに気づいていなかったので、無敵な気持ちでいられた。なんだって作れるような気がしていたものだ。
だけど、もう当時の倍の年数、生きてしまった。中年の創作スイッチは、もうかつての場所にはないはずだ。
人生経験を抽象化して、もう一度具体的にする
最近、幸いにも書店や図書館に足を運べる状況になっているので、何度も行ってみて、かつてやっていたように意識のコントロールを解除して、棚から棚へ、歩き回ってみた。
行きやすい場所に図書館を見つけ、今回はこれを借りた。
言葉での表現について向かい合いたい思いが出ている。言葉の表現にこだわりがちなので、詩や短歌や俳句にも関心があり、SNS時代との相性もよいので、それも学びたい。そして、書くテーマは育児かヨガにしたい、とぼんやりと考えている。
一般人の生活において、大きな変化が起きるのは恋愛・結婚・出産・育児・介護・闘病・死だろう。そのうち、私が今対峙しているのは育児なので、育児で得たものを何かの形にしたい、と思う。ヨガに出会って人生がガラッと変わって今があるので、ヨガについても何か書きたい。
だけど、それだけなら日記やブログ、SNSで十分だ。
わざわざ別の形(小説なのか詩なのか俳句なのか…)に変換してまで伝えたいことって何なのだろう。
育児やヨガで、自分が人に伝えたいことについて考えたところ、
「受け身だった人物が、自分の人生の主導権を取り戻すところを描きたい」
という思いにたどり着いた。
ヨガの講師をしばらくやってみて、自分に起きた変化だとか、一つ一つポーズを進めていって見える世界が開けていく感じだとか、そういうものがいかに他人に伝わらないものか、思い知った。
物語を通して、自分の足で一歩踏み出す過程を、そこで起こる様々な感情を描いてみたい。それが、私のやりたいことかもしれない。
これをどう、具体的な設定・プロットに落とすのか。今度はそれを考えよう。
書かない可能性が70%と冒頭に書いたけど、このnoteを書いたことで60%くらいに下がったかもしれない。
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