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モーニングnote:感情と距離を置いて

先週、久しぶりに映画館に行き『すばらしき世界』を観た。子どもがいると、夫婦で計画的にやりくりして予約したうえでないと、映画は観れないのだ。

とてもいい映画だったと思う。題材も注目を集めるのに適していて、社会的にも意義がある。ストーリーも良い。印象的なセリフも多く、いくつかのセリフでは涙がこぼれた。多くの人の共感を集めやすい人物描写も、絵作りの仕方も、何もかも良かった。歩道橋の階段を上がっていくスーツのサラリーマンが遠い存在に感じていたのが、後日、自分がその立場になってスーツで同じ階段を上がる。その対比も良かったし、多くの人が感じたことがあるであろう、社会からあぶれてしまったような感覚から想像できるように、実際に社会からこぼれ落ちた人の感情描写を行うのは見事としか言いようがない。

ただそこまで熱くのめり込めなかった。

これは自分の問題だ。

観る人が共感しやすいように、分かりやすくした演出、人物描写に対して、なんだか冷めてしまったのだ。社会のセーフティネットからあぶれた人のことは、わざわざ高いお金を払って長い時間を割いて映画を観に行くような、インテリな人には理解できないものだと考えてる。

デパ地下でアルバイトをしていたときに出会う、毎日試食に来る家のない人たちや、ドヤ街で歌うボランティアで出会う人たち、中学校で授業を妨害していたボンタンを着た人たちや妊娠中絶転校を繰り返す女の子たち…

わたしの出会ったことのある“困っていた人たち”はそれくらいだけど、手を差し伸べるのはとても難しいものだった。ひとこと会話が通じたら、それだけで奇跡みたいなものだ。理路整然と自分が何に困っててどうして欲しいか主張できる人はなかなかいないし、こちらとしては、どうしても怖い。恐怖を変えられないし、まず自分を守ろうとしてしまう。それに、誰かを助けられるような力が、自分にあるとはなかなか思えない。本当に相手のためになる手助けができるのか?自信がない。

映画の中では、疑心暗鬼だったり怯えてた人たちが、魔法にかかったみたいに先入観がぽろっととれて親切になる。主人公に、人にそうさせる力がある、という設定だったけど、現実には、なかなかそうはならない。

役所浩司演じる主人公のように、人の応援を集める才能に恵まれた人物もいるのかもしれないけど、とても稀だ。あんな人は、犯罪を犯すことなく生きてる人達の中でもなかなかいない。正直に打ち明けると、映画の最後の場面では、主人公が羨ましかった。すごく恵まれた人に思えてしまった。

本当に困ってる人は、“応援したくなる人“ではない。感情がまず拒否してしまうような、間違っても関わりたくないような人、同じ言語を話してるのに全く伝わらないような人だ。

そういう人でも、社会は救わないといけないと思う。だけど、個人としてはどうしても手は出せない。そして、自分だってそっち側に行ってしまうかも、という恐れも少しある。少しだけ。

全く共感できなくても、親切な心からじゃなくてもら、困っている人が救われるよう、社会の仕組みが変わって欲しい。そして、このジレンマ、罪悪感みたいな感情についてもっと掘り下げてみたいと思った。

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