見出し画像

地図を超える、放課後の数分

西武池袋線の窓に勢いよく流れる風景は、時間も超えていくようだ。
所沢市、最寄り駅は小手指。そのエリアで私は9歳まで育った。
家の窓からは、黄色い西武線が走るのが見え、夏には西武園の花火が見える。
平らな住宅地だが、栗林や里芋畑、池のような水溜りのできる空き地がところどころにあり、外で遊んでいると、思いのほか遠くまで行ったものだ。

秋のおわりの夕方、友達と別れ7歳の私は一人、住宅地を抜けて、畑と道路の境目のブロックの上を歩いていた。
その先には、雑木林があった。

友達とたまに入ってはおしゃべりをしながら、枝を拾って帰ってきたりする場所。
こうして目を凝らすと、木々の隙間から、向こう側の家が見える。そんなに広くない林なのだろう。
一人で入ると、木の一本一本が、思いのほか高くそびえていると感じる。
風に葉が擦れる音が聴こえる。
土と落ち葉の匂い。

振り返ってみる。
すぐそこに、先ほど通り過ぎた入り口の脇の家の、赤い瓦屋根が見える。
大丈夫。すぐ帰ってくるから。

私は枝を一本拾い、しなるように一振りすると、歩き出した。
自分の足音だけが聴こえる。
ざっく、ざっく、
小石の混ざった土と、乾ききった葉っぱが割れる音。

向こう側に抜けてみよう。駅のほうに出るかもしれない。
駅は全く反対方向だが、私はそう思った。

果たして、先ほど彼方に見えていた向こう側の家が見えなくなっていた。
私は左右の木を見上げてみる。

見えていた空が翳り、葉の色は深緑になっていた。
手にした枝を、祈るように振り、勢いよく振り返る。

今来たはずの径が見えないどころか、入り口がどのあたりかも見当がつかなくなっていた。

私は、昨日習ったばかりの、ピアノバイエルの旋律を口ずさんでみる。
声が裏返った。

風がいちだんと強く吹き、私は目を上げた。
空が群青の色になっている。

私は、静寂をかき乱すために、「あー」と言いながら、走った。

途端に、投げ出されるように、私は雑木林の出口から飛び出した。

目の前には、夕闇が迫る、街があった。さっき見えていた、向こう側へ出られたのかな?
小手指駅の近くに、こんな風景はなかったはずだけれど。

なだらかな丘に、家が数軒、建っている。

うちの近所にあるようなブロック塀や、電柱はなく、住所表示も見あたらない。

私は目の前の坂を下っていく。

最も手前の家の前で、老人がポストから郵便物を出しているところだった。
私の姿をみとめると、動作をとめて、私が近くに来るまで立っていた。

彼は、外国の、おじいさんだった。そのころ私は、日常的に外国人と会うことはなく、少し緊張した。カタカナと少しの漢字を学んでいる頃だから、外国語など、あいさつもわからない。
私はおじいさんが微笑んでいるのを不思議に思いながら、目をそらして家の前を通り過ぎた。
後ろで何か言っているのが聴こえた。

ガラガラと、雨戸がしまる音。夕方になると、家々から聞こえてくる音。
見回しても、どこから聞こえてくるのか、わからない。

私は、再び昇りになった丘を駆けていく。次に通り過ぎる家は、石でできていた。
今思えば、古い教会のような外観だった。

中からオルガンの音が聴こえてくる。
門扉が少しあいていたので、私はその隙間から、身体を滑り込ませた。
背伸びをして、窓から中を覗き込む。
暗くてよく見えなかったが、わずかな灯りに、ステンドグラスの色がいくつも、反射していた。

突然、横の扉が開いて、私は地面に尻餅をついた。
赤茶色のウェーブがかった短い髪の婦人が、私を見て驚き、手を差し出す。
彼女も、外国語のようなことばをしゃべっていた。なぜか、涙目だった。
手はあたたかく、優しく私を立ち上がらせ、何か言いながら、扉の中へ背中を押す。

そこには、たくさんの人が集まっていて、私と婦人の姿を誰も気に留めなかった。
婦人はすぐに人の中へ消えていった。

私は入り口付近で、フルーツパンチを配っていたおねえさんからプラスチックカップを渡され、さくらんぼだけ食べ、種を呑みこんだ。くせのあるシロップの味がした。

みんなの視線の先を追い、前方の祭壇まで近づく。
大きなバスタブのような器に、うす青い芍薬の花が舞い、散らされているところだった。
人々の手が、大きな木のかたまりを沈めていた。

私は大人たちの足をくぐりぬけ、その近くまで行く。
たしかに、木製のオルガンが、水に浸かっていた。

十歳を目前にして、私は西武線をもっと先へいった町へ引越した。
小手指のような平地ではなく、丘を切り拓いた坂の多い土地。
ニュータウンだが、すぐ裏には山へとつながる雑木林が広がり、その下方は線路につながっている。
友達と秘密基地をつくるのが楽しみだった。

高学年になり、秘密基地に行かなくなったあとも、ピアノレッスン帰りの夜に自転車で通りがかると、雑木林の入り口が真っ暗な穴のように開いている。いつも、見ないようにして強くペダルを漕ぎ、通り過ぎた。
中学に上がったある夜、その暗闇の向こうがぼんやりと灯りのように浮かび上がっているのを見過ごすことができず、私は自転車を停めた。

段々を降りていく。昔、秘密基地を作ったあたりに出た。何かのために、と掘った穴があるはず。
そこに、白鍵と黒鍵が、がいくつも散らばっていた。
木製ではなく、プラスチックだったということしか、憶えていない。

それから15年ほど経ち、私は焦がれていたアイルランドを旅した。目的地であるタラの丘へ立ったとき、ちょうど夕陽が沈む瞬間だった。
それなのに、いつもと変わらない夕暮れだ、と思った。
近くのブックショップへ立ち寄ろうと丘を降りかけた時、その店を包む木々のなかに木製のオルガンを見つけた。
歩み寄ると、蓋は取れ、鍵盤がむき出しになり、干からびている。指で押すと、乾いた軋みのみが聴こえた。

店じまいを始めていた、老人と目が合う。彼はアイルランド英語で何か言い、向こうを指さした。古い教会だ。
聴き取れた言葉“It has drifted.” 漂流してきたんだ。
6,7歳くらいの少女が、駆けてきた。どこから来たの?
私は、東京のとなり、と言った。
どんなところ?
東京がイギリスなら、埼玉は、アイルランドといつも思っていた。
彼女は一生、西武線に乗ることはないだろうけれど、私はガイドブックに挟まれた東京近郊路線図を、少女に渡した。

#小説 #散文 #随想

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?