ド・レ・ミ の、その先
私がピアノの演奏を聴く時、その音は、ドレミの羅列で聞こえるものと、ざわざわした何か、濃密な何か、などの響きで聞こえるものに分かれる。
正確には、さすがに長いこと音楽が生活の中心なので、楽音は全てドレミ(音名)で聞こえている。(テレビから聞こえてきた音を何の気なしに音名で口ずさんで、妹から「うわっ、やっぱそういう風に聞こえてるんだね」と言われたりした。音楽家あるあるだろう。)
ただ、ドレミという音として鳴らされているなぁという印象を受ける演奏と、ドレミから離れて、自然の音や人の声のような"ある響きを纏った音"の集合体として音楽が存在しているなぁ、という印象の演奏に分かれるのだ。そして私がより魅力的と感じるのは、後者の演奏だ。
自分が弾いている時でも、手に余るパッセージや複雑な箇所ほどただの音の羅列になりやすく、しかもそうなっている事に気づかずにいる時もあるので、何度も弾く中で、弾き飛ばさずに、全ての音に意識が及んでいるかを丁寧に自問自答しながら見直すことを心がけている。
私が適当な音を探る上で手がかりとしているのはいわゆるインスピレーション、ではなくて、作曲された時代、作曲家の特徴、その曲そのものの特性、和声の波の中でのその音の役割、などのより具体的な知識、加えて、音の高さや音型など、楽譜に書いてあることそのもの、だ。
というより、私が思うにインスピレーション(閃きや直感)の大半は、実は自分の知識や経験の組み合わせだと思うので、持てるものを総動員して研ぎ澄ませた結果湧き出たインスピレーションを、検証したり再構築したりしている、というような感覚が近いかもしれない。当然、そのインスピレーションが先に来たり、知識が先に来たり、もしくはその2つを行ったり来たりするのだけれど。
"ピアノを弾く"ことばかりしていては、このインスピレーションが発展していくことはない。前述したように、インスピレーションが自分の知識や経験から得られるものであれば、知らない質感の音、知らない色の音、知らない感情の音、が急に生まれることはないのである。
(神の思し召し、のような意味のインスピレーションについては別の話。)
なにも音楽に限ったことではないけれど、知識を増やし、たくさんの経験をして、多角的に検証する事で発見し、深められる物がある。
素材の甘さを引き立たせるのに必要なのは、砂糖や塩などの調味料だけではないのである。(最近料理動画を見ることにハマっているだけです。)
楽譜に書かれたド・レ・ミの、その先にあるはずのもの。たくさんの材料を持って出逢いたいものである。
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