私らしく社会の中に生きるために

昨年ぼんやりと考えはじめたことですが、
\世の中に広く発信する/を始めてみます。

何度も書いては寝かすことを繰り返し、下書きばかり増えて気づけば2月半ばとなってしまいました。
『後でいくらでも書き直せばいいよ』
とアドバイス頂き、ようやくいったんスタートしてみることにします。

ーきっかけは、2018年ー

2018年がどんな1年だったか年末に振り返ろうとしましたが、とてもじゃないけどうまく言葉がまとまらず。
(正確には、分かりやすい言葉で書いた瞬間に、出来事そのものが単純化されてしまいそうで嫌だなぁと、、)
何度も書き直し、あえて少し分かりにくい表現のままになっていることはご勘弁ください。
※長くて読めない!とよく言われるのでそこもご勘弁ください。笑

私にとって2018年は、とても大きな人生の舵を切った1年でした。

それまで大切に繋がり続けようとしていたものから手を離し、足元にあるずーーっと長く続くように見える道から、別の道へ進むことを決めました。

ひとつは
夢に見た大好きな仕事と会社。

もうひとつは
一度は一生隣にいようと決めた人。

この経験を一言で語れるはずがありません。
一言で語りたくもない。

ただもう2度と同じ経験はしたくないです。
今でも考えると胸がきゅっとするような、まだ消化された過去には出来ないほんの少し前の出来事です。

だけど、
今は当時想像も出来なかった穏やかで充実した日々を送っていて、正直自分でも少し驚いています。
そういう意味では一定の時が経ったのですね。

だけど手を離すと決めるまで、どの選択が私にとって良いのか本当に全く分かりませんでした。かなり長い時間迷い悩みましたし、とても孤独で怖くて仕方がなかったです。
これで良かったと言えるとしても、もっともっともっと先のことだと思っています。

なので、この経験に対しての解釈も時間と共に変わっていくだろうと理解した上で、あえて今、まだ記憶や感覚が残っているうちに書いています。

勘違いされたくないのが、これは
『手放さなければ新しい何かは手に入らない。まずは手放してみましょう。』
という類いの話ではしてありません。
誰かに実践して欲しいというような再現性のある"メソッド"でも、ドラマチックなフィクションでもありません。

これを読んでどう感じるかもどう評価されるも自由ですが、
ただ事実であり、今ここに生きている1人の人生の話です。

私は自分の人生を一般化するために書くのではなくて、ドラマチックに語りたいのではなくて、ただ私という人間を深く知ってもらうために、そしてこれから私が私らしく社会の中で生きていくために、そして全ての経験を未来に生かすという私の信念のもとに、書くことにしました。

そこだけまずは伝えておきたいと思います。

ー私らしく生きるー

2018年をきっかけに"私"と《社会》の関係性に関して認識が変わりました。
というか、改めて"私"と《社会》の関係性について考えるきっかけを与えてもらった結果、認識をアップデートしました。

というのも、
2018年に大きく舵を切ったことで、私はようやく"私個人"が社会にどう関わり繋がって生きていこうかと考えざるをえなくなったんです。

それまで私は、
誰もが羨む会社で、誇りを持って働ける仕事に就き、20代で一生一緒にいたいと思えるパートナーに出会い、住みたい場所に住み、食べたいものを食べ、欲しいものを買い、旅行に行き、、つまりなに不自由なく生活していました。
誰から見てもそうだったと思います。

そんな仕事と会社とパートナーから手を離そうと思った時に、あまりにも強く恐怖心が抵抗しました。
もちろん、相手がいる話なので、人を傷つけることへの恐怖心も大きかったのですが、それを除いてもとても耐えられない苦しさでどうすれば良いのか本当に悩み考え抜きました。

その時、そのあまりにも強い抵抗心に、
『あぁ。これまで私は大きな会社や家族、社会的ステータスや属性により、社会から信用を得て、社会の中で守られていたんだ。』
と肌で実感し、それらを失うことがどういうことか想像出来ずとても怖かったのです。
そして同時に、そういうものに守られることへの"安心感の危うさ"に気付きました。

私は知らず知らずのうちに、《社会》というどこの誰かも分からない漠然としたものから高く評価されることや、《社会》という一般化されたものに自分を順応させようとすることで、安心感を得ていたんだと思います。

"私"と《社会》の関係性はとてもぼんやりとしてとらえどころがない漠然としたものでした。

だけど、この大きな恐怖心と向き合ったことがきっかけで、社会という漠然としたものから得ようとする安心感に頼るのを辞めようと思うに至りました。
こういう生き方をしていたら、いつまでたってもどこの誰かも分からない《社会》の評価を気にして生きてくしか出来なくなる。

私は幼い頃から自己肯定感が低く、他人の評価を無意識のうちに気にして生きてきましたが、この感覚が"私"を失うことに繋がり、自尊心をいつまでたっても得られないという生き苦しさに繋がっていると気づいてハッとしました。

私は広く《社会》から見たら特別でも何者でも無い31歳です。それでも私は他の誰でもない私の価値観のもとに、私らしく生きたい。

堂々とそう思えるようになりました。

なので、そのために行動しようと思ったのです。


ー社会の中で生きるー

私が"私"らしく生きようと思いはじめると、自然と《社会》がぼんやりとしたものでなく、一人一人の個人の関係性として見えてくるようになりました。
職場の同僚も、親友も、名前も知らない店員さんも含めて、目の前にいる人と関わりながら生きようとするからこそ生まれるのが《社会》なんだと気付きました。

そう思うと誰かと対峙した時に、肩書や属性でなく『この人はどんな価値観で、どんな人生を歩んでいる人なのだろう』という深い興味が以前よりもずっと増しました。

社会の中で生きるって、
人との関わりの中で生きるってことだ。

人と人が繋がり、
関わり合おうとするのが《社会》だ。

そう心から理解したとたん、生き苦しいと思っていた社会が愛せる可能性のあるものになってきました。
なぜなら私は根本的に"人"が好きだからです。目の前の人達と理解し、互いに尊重しながら、それぞれが"私らしく"いられるような関係性を築いていくためになら努力していきたいと思えました。


大きな漠然とした《社会》からの安心感を得るために私を順応させるための努力なんて必要無くて、ただ目の前の人達との関係性について考え、対話し、お互いにとってより良い状態で共存しようと努力する。
目の前の1人1人との関係性の中でなら、私らしいままでいられるかもしれない。
社会の中で私らしく生きられる

そう思いました。


ー私らしく社会の中に生きるー

私らしく社会の中に生きるために、
まず、私自信を発信していこうと思ったのは、ここから人との繋がりを深めたり広げたりしていきたいなと思っているからです。

私がどんな人間か、名刺の肩書きで見てほしくないし、職務経歴書や履歴書に書ききれるわけもないし、見た目や属性で判断されたくもない。

私は自分の経験、価値観、感情、思考、学び、人との関係などを発信することで、既に関わりのある人には私についてより深く知ってもらいたいし、まだ繋がりの無い人とは繋がるきっかけが出来ると思っています。

つまり自分のために発信するのですが、
もしかしたらどこかの誰かの"私らしい生き方"の背中を押せるものに出来ればなお嬉しいです。
そういうチャレンジをしている人がいれば、ぜひお互いに応援しあっていけたらと思います。


ー というわけで。 ー

つまりなにが言いたいの?
長々と書いてしまいだいたいいつも長いので友人知人がもし読んでくれていたらそんな言葉も聞こえてきそうですが、、、苦笑

【私らしく社会の中に生きる】
を実現するために、発信してみます!

ダイバーシティ&インクルージョンのはなし?
Pay it forwardのはなしだったりする?

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
ただ、誰でも理解できる共通言語にしたとたんに、自分の言葉で考えることを辞めてしまうような気がするので、少しでもしっくりこないのであればそういう単語に頼るのは辞めていて、、、自分の言葉でアウトプットしていきたいと思います。

まわりくどい表現が多いときには、しっくりくる言葉が見つかってないんだな、とご勘弁ください!笑

こういうことじゃない?となんか当てはまりそうな言葉を知ってる方にはぜひ突っ込んで頂きたい。

そして、これからまだまだ今の考えも価値観も変化してゆくかもしれません。むしろ変化させていきたいと思っています。なので私自身が変化し続けながら、変化し続ける社会の中でどうすれば私らしさを活かして生きていけるか。色々と試していきたいと思います。

私らしく
社会の中に
ー 人との繋がりの中に ー
自分の人生を生きる

そのために発信してみます。
まずは続けることが目標!

これまで Facebookなど内向きには発信してきたつもりで、それだけでも十分だと思っていたし、何よりも安心安全の場を離れることに多少の不安もあったりしたのですが、
どんな私でも受け入れてくれる人達がいると絶対的安心感を持てるようになったので、こうして一歩踏み出そうと思います!
友人や仲間に心から感謝します。
ー2019.02.11ー

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