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象を撫でる

群盲象を撫でる、という慣用句が好きで。
最初に聞いたとき、目をつぶって象の身体を辿るのはわくわくするだろうなってぱっと思ったのだ。
手を伸ばすと温かくて厚みのある皮膚がなだらかに広がっていく。それが長い長い鼻や平たくて薄い耳につながる。
ああー、象ってすっごいね!

目の見えない人同士で触りながら象について語るのは、ただの人がするよりずっとエキサイティングな対話になるだろう。
グレゴリー・コルベールが撮る写真のように鋭敏で精神的なイメージの膨らみがある。

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写真:グレゴリー・コルベール
https://gregorycolbert.com/project/ashes-and-snow/

(ヘッダーの画像も。フィルムもとても美しいので、ぜひギャラリーを見てみてください。PC推奨です)

私は子供のころこの言い回しを知ったとき、目の見えない人が感じるであろうビビッドな感動を想像し、象の生き物としての凄さを改めて感じ、非常にポジティブに、うまいこと言うなあと感服した。
だから差別用語だなんて言われるとひやりとする。

え、これって目の見えない人を嘲ることばなの?
そして憮然とする。
みんなそんなに見えてる自信があるの?
て思う。
私たちだって知らないことだらけじゃん?
見えてないじゃん?
自分はここで例えられる存在じゃない、と思うほうが不遜じゃない?

私は子供のころ教科書を受け取るたび、「私にはこんなに知らないことがある。私は、これまで人類がよってたかって考えてきたことのえり抜きを学べるんだ。学校教育ってお得だなあ」とか「私はまだまだもの知らずだ。最低限知りたいことを学び終わる前に人生終わっちゃうじゃん」ってわくわくしたり、敬謙な気持ちになったり、うんざりしたりした。
国語や理科の便覧、地図帳を読み耽った。
予習なんてせこい考えじゃなくて、勝手に教科書を読み進んだ。
退屈なんかしてる暇がなかった。
(そういえば、授業中江戸川乱歩かなんか読み耽っていて先生に指名されて普通に正解したことがあって、「どこで知ったの?」と聞かれ「え?この教科書だけど…」と面食らったものだ。教科書を読めばわかることを授業でやるのは、みんなで感動を共有するためだろうか、なんて思っていた。今では考えられないマルチタスカーぶりだ)

自分が見えてる、と思ったら象をしげしげと見たり触ったりしなくなるだろう。
もっと知りたい、見たいと思わなければ、見れども見えず。自分が見てないことも知らずに象に背を向ける。

私は象を感動や畏怖に包まれながら飽くことなく撫で続ける人間でいたい。
象の向こうにも人がいて「ええー、これ肩だか尻だかわかんないよ」「なんか細くなってきた!動くんですけど!まさか鼻!?」なんて言い合いたい。

「知る」って、そういうことでしょう?

(過去日記)

#グレゴリーコルベール #知る #象 #慣用句

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