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紀行:信濃川路紀行

 千曲川は千に曲がって、信濃に雪はあるか。というところである。最近はどうも心が落ち着かない。というのは全く一週間後に迫った渡米行のせいであって、どうにかこの気を紛らわす必要が出てきたのである。それで結局のところ私は切符をとって、始発で庵を発ったのであった。

 目指すは信濃、雪の積もる信濃。薄暗い夜明けの関東平野がだんだんと紫だってきて、日がのぼる頃に上州を過ぎた。その関東平野はいつ眺めても広大であった。その大いなる大地の外延部の一角を占めている上州の山脈は、普段都内からは霞んでしまって見えないけれど、きちんと存在していた。だからそれを見る度に平野の世界がこのまま無限に広がっているという不安はなくなるのである。

 さてこの山脈の一部に、有名な碓氷峠というものがあって、これに差し掛かった。碓氷峠というのは信州と上州を結ぶ中仙道の峠である。近現代になって、ここに鉄道を通して、それからというもの、碓氷峠越えというとのは名物であった。だから峠の釜飯という食べ物まで名が通っている。当時はここでわざわざ機関車をそれ専用のものに付け替えてこの峠を登るのであったから、ひどく面倒で、そのため新幹線が誕生して以来路線はその役目を終えた。前に関東を出たことがない東京人が、このあたりの風景が極めて日本であると言っていたが、そんな彼は一度飛騨にでも行く必要がある。

 碓氷峠を越えてトンネルを抜けるとのっぺりとした山が現れるが、これはいくつもの紀行文に書かれてきた浅間山である。浅間山が煙を出しているというのは風物であるが、今日は出ていなかった。この山の大鯨のようなこと、とても珍妙である。この浅間山が噴火したために、江戸は軽井沢の宿町が被害を被った。そうして明治の時代になっていろいろな理由で寂れていたのであるが、それを欧米人が発見し、整備したのが今の東京都軽井沢である。かの東京人はここにペンションを持っているとかいうが、まったく都会的なことである。このあたりの風景はいかにも欧風的な建物が立ち並び、教会などがある。

 浅間の姿が裏になるころ、上田を過ぎ、長野に至る。この長野というものは県庁所在地であるが、長野県の都市の一つなのであって、これと松本が対立している。高山にかこまれたこじんまりとしたところに豊橋を置くと長野であるといった様。もちろん県庁所在地であるから、いくつかの高層建造物などがある。

 長野のことを書く前に千曲川のことを書こう。千曲川は先ほどの上田よりもさらに奥の方の、奥の方というのは甲斐や武蔵の境にある甲武信ケ岳等をはじめとする深山に流れを発する川である。そしてこれが上田、長野と流れ、飯山へゆき、越後に注ぐのである。それゆえ日本一長い川となっている。そして、述べていなかったが、この旅はこの川に沿って進んでいくので、同時にこの千曲川・信濃川を辿る旅なのである。この川にももちろん川の文化というものがあるわけで、古来はこの千曲川の流れを利用して、越後と奥信濃のあたりの交流と運搬が盛んであった。しかし現代にはみられなくなった。代わりに私はただ列車に身を任せるだけでよい。

 長野に着いたらば急ぎで切符をとって、長野電鉄に乗り換える。長野電鉄は地下に駅があったが、ここは完全に昭和のままである。まだ切符を買って改札でぱちぱちしているのである。切符入れが機能しているのである。みんな急いで切符を買い求めるからおかしい。そういえばICカードなどないころにはどこでもそうだったし、故郷も昔はそうであったことを覚えている。

 この列車にいかにも長野人の振りをして乗り込んで、善光寺下で降りた。善光寺は、それは古来より生涯に一度はと言われてきた善光寺である。なせ善光寺を訪れているかといえば、長野市が善光寺の門前町から発展したからであり、長野を体感するのに最もよい場所ではないかと考えたためである。駅を出て、細い道を上り、して善光寺に着く。空気は冷たく、坂の上の山は澄んでいた。

 さてここだけ異様に日本成分が高い。よく雑誌等で見かける門も実際に見るとおおと思う。それから本殿に入ると、僧侶達がいかにも経典を読み上げているのがそれらしい。この経典、聞くと一種の旋律を呈し、音楽のように聞こえて、それから空間に広がってゆき、柱の木々に染み渡っていく様である。そうして経を吸い取った本殿はますます重厚なる風格を見せ、その屋根の下には黄金をちりばめた装飾や仏の像がまぶしい。そして祈祷を受けている人や朝から参拝にくる人などかいた。

 そういうわけで善光寺を詣でて道を戻る。商店街のおばあさんが、店から出て掃除をした後に、何気なく寺の方を向いて手を合わせるのが、なんとも風土だと思う。穂国にも、山には毎日登れないが、本宮山に手を合わせるということが昔は見られたという。

 長野駅に戻ったらばまたすぐに切符を求めて、して飯山線に乗る。飯山線は80年代の雑誌に載る風を変えず、今もローカル線きっての路線であるようだった。小海線もしかりであるが、ここも景色の凄まじいところである。また例のディーゼルがいた。挨拶をして目の前に老婆の座ることあり。

 長野のあたりはそれほど雪がなかったが、しばらくすると果樹園の類いが広がって小布施を過ぎ、山がちになってくる頃には雪がよく積もるようになっていた。報に依れば先週は大雪であったのに、にしてはまだ少ないように感じる。

 さてこのあたりにくると特徴的な家がある。昔の茅葺きをトタンで覆ったという形容の家がよく建っているのである。しかもこれが集落ごとに屋根の色まで同じだから、ますます村の様を成していてよい。そのような景色が日本にはまだある。すっかり山も白くなってしまって、のどかなる景となった。かの兎追いしで有名な故郷の歌を書いた高野辰之はこの信濃のあたり出身であるから、そういう意味でここを故郷だとするのも頷ける。

 そして飯山に着く。飯山は最近まで全く奥地であったが、新幹線が開通してここにも都会的な駅があった。どうやらスキー客を相手にしているらしく、そのような旗がそこかしこに幕を広げて寒風に吹かれていた。また飯山のあたりは特別豪雪地域であって、ゆえに本当に多くの雪が降るのである。駅を出て二十分ほど歩く。木の枝に雪の結晶のようなものがこびりついて白く刺々しているのが面白い。そしてたどり着くのは飯山城。

 飯山城は越後の上杉氏が、甲斐の武田氏をおさえるために前線として位置付けた城である。しかし今は城址となっていた。雪に埋もれているので、また登山靴に履きかえて、入る。さてこうなってくるとまた無人の境である。閉ざされた復元城門は雪にさびしく建っていて、その脇には和暦の刻まれた五枚の石碑が、古を記して埋もれていた。雪を踏みつけながら城のなかに入ると、古びた神社があった。このこじんまりとした神社に一礼をしてから雪に埋もれた城を巡ることにする。

 しかし城址探索において地面が見えないというのはあまりよいことではない、なぜならば窪みなどがよくわからないからである。しかし雪に埋もれた石垣なども風景としてはまたよい。とはいえ本当に雪が多くこれまでの比ではない。ひたすらもふもふして看板や石碑などを見まわっていると身体が暑くなるほどであった。看板には曰く天皇がやってきたとか、櫓跡とかそういうものがある。そしてある一角には、飯山一帯を見張るかす展望、下の学校ではスケートをやっていて、千曲川の流れもあり、周囲は雪山に囲まれている。ああよい景色かなと思う、そういうことを一時間も独りでやっていると気がおかしくなりかねない。しかしそもそも列車が二時間ほどこないから仕方がないのではあるが。さあもう雪はさんざんになっていい加減に北飯山駅に歩みを進めた。

 この駅は無人駅であり、こういうところにはまた決まって駅ノートがあるから、三河人が雪見に来たことを書く。しばしして列車来る。後の車両が空いていたのでそれに座っていると次の駅で列車ごと切り離すから乗っていて無駄であった。そういうことであるから前の列車はすでに混雑してしまって、一人席に座れなくなって悲しい。そちらの方が川を眺められてよいのに。それらの席は外国人観光客が一人ずつ席を占めて居た。

 それからというもの、飯山地域の本領に至る。山が迫ってきてみるからに田舎であって、集落はぽつぽつとつらなり、雪に埋もれた田畑でスキーをしている者などある。まったきに日本昔話の世界である。日本の民俗は、何とも言えない生々しさがあってなんともいえない気味が悪さがあるが、そういう気分が一面に充満していて珍妙である。

 しばし列車にゆられて暖房で眠くなってきたころに着くのは十日町。十日町もまた人口数万の小さな町である。昼間のしけた列車からぽつぽつと人がおりて、いつのまにか駅には誰一人いなくなる、そういうところである。駅ピアノがあったから、弾いておく。

 ここで尋ねるべきは十日町資料館である。これは新しい資料館で、雪国と十日町について詳しく紹介している優良な施設である。しかしまた問題が発生する。着いてみるに、この資料館に来訪客が全くいないのである。たしかにこういった資料館を訪れる人は少ないと思ってはいた。しかし私が滞在した1時間ほどのあいだに人1人来ず、ただ職員2名のみがいるだけである。一方パネルはデジタルで、すべてのアトラクション(自動で藁蓑を着れる装置や土器を組み立てる遊び、様々なパネル)は私の為だけに電源を入れているという始末。これは北海道の釧路の動物園以来の恥ずかしさを覚える。華やかなパレードをたった一人で見るというのはものすごく気味が悪い。そういう気分である。

 十日町は火焔型縄文土器の聖地である。ここほど奇妙で発達した縄文土器がある場所はないといっていい。それの出現はすなわち古代において、この地域は発展していたということを意味する。国宝の土器が何基も並んでいる。私の為だけにスポットライトを当てられている土器!
 
 そして雪国の暮らし、これを感じることこそこの旅の目的であって、雪見の目的でもあり、楽しみであった。雪と言えば東海では飛騨になるが、とにかくここは日本一の豪雪地帯である。雪ノコギリとか雪なんとかとか、様々なものがある。そして風土を考察する際に住居の形は重要であるが、ここでも雪に対応した住居であることは言うまでもない。その一つが雁木造りの家であり、実物は見れなかったが、精巧な模型があって満足した。これは商店街など軒を連ねている場所で、屋根を異常なまでに延ばし、歩道を覆い尽くす。そして冬の間は屋根の雪を道路に落としていくから家の目の前は完全に埋もれるというわけ、しかしこの屋根で覆われた歩道だけは生き残るため、トンネルのようになる。人はそこを通る。これをして、例えば雁木で有名な高田などの町は、冬になると町ごと雪に埋もれて、「此の下に高田あり」などと言わしめたものである。
 
 それから展示には民家の模型がある。この地方の昭和初期のあたりの暮らしを再現したものである。様々な民具とともに、女の人形の裁縫をしているのがある。それはよい。その横にいる赤子が問題で、イジコの中に入っているのである。イジコと言うと私は東北地方を思い出させるが、ここにもあった。イジコは赤子を括り付けておく、丸くみかんをくりぬいたような草の箱である。大人たちは皆農作業に出かけないといけないから、赤子はこのイジコのなかに布で縛られて、昼じゅう家に一人とりのこされるのである。もちろん動けない。そのためかはわからないが、東北の人は静かであると言われる。また恐ろしい話に、畜生が家に上がって動くすべもないイジコの赤子を襲ったとか、猫がのっかってしまって息がつまるだとか、とにかく想像できるあらゆる悲しいことがおこったのがこのイジコである。それが、ある。もちろん現代では見られなくなったが、民俗の生々しいところはこういうところであって、また風土である。民俗はある時には気味が悪い。しかしこの家の模型、靴を脱いで中に入っていただき、おくつろぎくださいとある。いや、くつろげはしない。歴史の重みで、この家に入ってしまったら、昔に戻ってしまいそうな気がする。そういう模型である。
 
 信濃川についての展示もある。車窓から見た通り、十日町は信濃川が作り出した河岸段丘のなかにある。河岸段丘というのは伊那でも見ることができるが、川がつくりだした段々のことを言う。また先にも触れたが、信濃川は川の交流が盛んであって、つい最近まで川船の駅なんてものもあった。またそもそも橋がないために、そういう意味で船は交流の舞台であった。しかし今は橋と車と鉄道によって、川はただの川となった。
 
 雪というもの。新婚夫婦の峠をゆくを、雪崩がおそって、それ以来供養があるという話があった。なんということかな。飯山城でも思ったことだが、雪というものはきれいであるのだけれど、やはり全く面倒なものである。この雪のために日本海側では農作業が冬にできず、それで内職が発達したところもあれば、江戸へ出稼ぎに出たり、歩荷をしたりするのである。新潟は東京への人口流出の最もであったが、それは江戸時代から変わらないことなのである。そうした冬の出稼ぎはいつも辛く語られるものである。しかしそれでも故郷に生きる人がいた。
 
 十日町を去って、また信濃川の流れと共に下った。信濃からの越後への道と、上州から越後への道が合わさるところまできて、そこからは一気に新潟を目指す。新潟という字にもあるとおり、ここは昔、沼地であった。それは一年中水のひかない沼地であって、田植えをしてから稲刈りをするときまで、沼のままなのである。それをなんとか改造して、今の一大米産地新潟となった。
 
 新潟でまた面白いのが、阿賀野川という、新潟と信濃川の右隣に日本海へそそぐ川のことがある。さて昔こそこの川は信濃川に注いでいたのであるが、何かの訳で、阿賀野川から日本海へそそぐ用水路を建設することになった。しかしその冬に大雪があって、水が大量になった結果、その用水路は決壊してしまって、大河となってしまい、今は阿賀野川になってしまったという。
 
 長岡に着く。今の長岡駅があった場所には長岡城があった。そしてその城主牧野氏は、まぎれもなく豊川は宝飯郡の牧野氏なのである。徳川家康が天下をとるにあたり、譜代大名としてこのようなことになったと聞く。ここにも東三河の血があって、そして今は歴史の跡である。それを、長岡城跡という碑の前で一三河人として見る。
 
 このあたりを走る列車は東京を走る列車と似ていて、まるで東京かのように思う。それを思うと、新潟が裏日本の首都と呼ばれていたのを思い出す。そも新潟はもともと港町からはじまっていて、西回り航路の時代にも栄えた港なのである。だから経済に明るかったのである。そして今は日本海側で最も発達した80万都となった。しかし裏日本と呼ばれるのは太平洋ベルトに対して全く日本海側が暗いからであって、高度経済的な用語である。だから新潟が悪いということでもない。
 
 現に新潟市は都会である。豊橋を3倍に拡大したような場所である。バスが優秀なように感じ、ひっきりなしに人を運んでいて、私も何も下調べをしていなかったが、使えるほど便利だった。さて新潟には萬代橋という有名な橋がある。もちろんこれは信濃川にかかっている橋なのだが、石造りの精巧なもので美しいと聞く。その渡せる川、信濃川は今や大河となって海に注いでいる。これが今日の初めに見ていた信州の千曲川であって、飯山で見た千曲川であって、水なのである。
 
 萬代橋と信濃川、夜の闇に橙色の電飾がともる。それが信濃川に映っていて感嘆をつく。そしてこれはドイツのドレスデンの夜景であって、ローマであると思った。新潟の夜景はこれに似ている。新潟は夜のローマである。だから全く海外に行かなくてよい。
 
 しばし夜風に吹かれてから、トキメッセという新潟が誇る高層建造物を目指す。これは31階140メートルで日本海側で一番高いビルである。東三河で一番高い豊橋のロワジールホテル30階より高いから高い。しかしそれが最も高いのだから、日本海側というところはそういうところなのである。さてここの展望台、無料である。だから賑わっていると思ったら、人1人いやしないのである。営業時間外かと疑ったが、そうではない。だからまた恥ずかしい気持ちがして、数人人がいてほしいと切に願った。しかしここの夜景は本当に素晴らしく、遠くの光が瞬いているので、この旅を思うと、終いを飾るのにふさわしいと思うし、この光の海こそが日本海の首都新潟の海であり、そして日本海こそが、新潟の歴史である。

 それからは新幹線で一瞬のうちに東京へ戻る。このところは三国街道と言って、昔は徒歩であったというのに、今や寝て通り過ぎられるだけとなった。だから本当に時代は変わったものであり、時に悲しい。

 そういうことがあった。

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