日の出の日 #1
何もしなくたって、ただ毎日は過ぎる。
気の合う仲間とくだらない話をしたり。試験前に必死になって一夜漬けしたり。文化祭に本気になって空回りしてみたり。
珍しくもないどこにでもありふれた日常だけど、そこそこ楽しいことだってあった。
けれどそうやって過ぎてしまった毎日のことを思うたびに、やっぱりどこか寂しさみたいなものを感じてしまう。
高校生活にやり残したことなんて何も無いとずっと思っていたはずなのに、いざその時が来たら、実際には後悔することばかりだった。
今までかけがえの無い特別なものだと信じていた思い出たちが、過ぎ去ってしまえば何も残っていないような気がして、それがどうしようもなく寂しい。
だけど、こうやって今考えていることだって同じように、いつのまにか毎日の中に埋もれて、忘れていってしまうものなのかもしれない。
そうしたら、どうしてかも分からないまま、寂しいという気持ちだけがいつまでも残りそうで、そんな得体のしれない予感が俺の心をざわつかせる。
*
どこからかピアノの音が聞こえたような気がして、俺はふと足を止めた。
多分、普段だったら聞き逃していたか、もし気がついても気のせいだということにして無視していたと思う。
その音色はそれくらい微かだった。
けれど今日に限って、それが妙に気になってしまったのは、そのピアノの音がまるで誰かを呼んでいるみたいだったからかもしれない。
なんて、そんなキザなことを考えたのは多分、俺自身が誰かに呼ばれたいと思っていたからだろう。
このまま最後にしてしまうのがなんとなく寂しくて、だからきっと、俺は何か口実を探していた。
校内にはもう殆ど人は残っていない。
夕焼けに変わる直前の、そんな薄明かりに世界が覆われていた。
喧騒は残り香のように、まだ辛うじてそこら中に漂っていたけれど、それが逆に静かさを際立たせている。
音の出所を探ろうと、目を閉じて耳をすませてみる。──やっぱり、それは気のせいじゃない。
まあこれが最期だしなと、心の中で誰に向けてなのか分からない言い訳をしながら、もう数えるくらいしか靴が残っていない下駄箱に履きかけていた外靴を乱暴に押し込んだ。
それから俺は、さっき降りてきたばかりの階段をまた上っていく。
近づくにつれてはっきりと聞こえるようになったその旋律は、何かの曲のようだ。
俺には音楽の素養がないから、なんて名前の曲なのかは分からない。それなのに、不思議と懐かしい感じがする。もしかしたら授業で聴いたことがあった曲なのだろうか。
今確かめなければ、この懐かしさの正体も永遠に分からなくなってしまうような気がしていた。
俺は花の香りに引き寄せられる虫のように、歩き慣れた廊下を進んでいく。
そうして音を追っているうちに、気がつくと俺は音楽室の扉の前に立っていた。冷静に考えれば、ピアノの音がしたのだから当然のことなんだろうけど。
ちょうど目の高さにあった覗き窓から音楽室の中に視線を向けると、夕焼け色の室内に一人、女生徒がピアノを弾いているのが見えた。
窓が開け放されているみたいで、風が吹くたびにカーテンがはためいていた。肩までの黒髪が、彼女の動きに合わせてリズムを取るみたいに揺れている。
教室の中は逆光に赤く黒く染められて、全ての輪郭が曖昧にぼやけている。そんな中でただ唯一、カーテンの隙間から漏れてくる夕日を反射して、ピアノだけがキラキラ揺らめいている。
それはまるで夢の中にでもいるみたいに優雅で、幻想的な風景だった。
いつの間にか演奏が止まっていることに気がつかなかったのは、呆気にとられていたからだろう。
気がつくと、ドアを挟んで俺のすぐ目の前まで来ていたその人は、のぞき窓越しに俺と目が合うと、ニッと笑ってドアを開けた。
「そんなところで見てないで入りなよ」
そこにいたのは、見覚えのあるクラスメイトの女の子だった。
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