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自己紹介を兼ねて…。私がなぜ海外で生活することになったのか。No.1

はじめまして。タイの首都バンコク在住の、みなと申します。

初投稿はバンコクを写した2枚の写真でした。空と街並み。意外にも7人の方から『すき』をいただき、心がときめきました。すきをくださった方、ありがとうございます。

これからは風景写真の投稿をはじめ、海外で暮らしている生活のあれこれや、感じたこと、そして海外に生きる日本人女性を中心にインタビュー記事を書いていけたらと考えています。

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記事初投稿は、はじめましてを兼ねて、自分のことを書いてみようと思います

■  目 次 ■

1.結婚して中国上海へ

2.母の看護のため日本へ

3.再び上海へ

4.タイバンコクへスライド

5.現在の暮らし


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1.結婚して中国上海へ

海外で暮らすことになったのは、2009年に結婚をしたことに始まります。

夫とは2年半の交際を経て結婚するに至りましたが、元々海外で働く意欲満々だった彼は、2008年に転職活動を行い海外勤務ができる日系企業へと転職をし、晴れて中国上海でまずは単身赴任となりました。

私は当初海外生活は2〜3年のつもりでした。3年ぐらい経ったら日本に帰るのだろうなぁと思っていたのと、父が中国で駐在生活を単身で送っていたこともあり大学で中国語を齧っていたので、中国での生活は楽しみでした。

思いがけず入籍後すぐに妊娠がわかり、夫の元で一緒に新婚生活ができたのはたった3ヶ月。甘い新婚生活♡ではなく、中国での慣れない生活や元々遠距離恋愛だったのでお互いの習慣、価値観を知ることに精一杯。マタニティブルーも入って色々な場面で衝突し、出産で私一人日本に帰れることに正直ホッとしました。

産後5ヶ月でまた上海に戻ってみると、当時住んでいたマンションはほぼ日本人が住んでいて同い年の赤ちゃんが大勢いることがわかり、多くはすでに兄姉を産んで2番目の赤ちゃんを持つ方々でしたので、子育てについてたくさん教えていただくことができ、不安を持たずに生活をすることができました。

中国人は子供、とりわけ赤ちゃんに対してとても優しいので、夏でも靴下を履かせていないだけで5メートルおきに老若男女問わずに「靴下を履かせなさい」と注意されたり(若い男の人にもエレベーターの中で注意されました)、当時珍しかったエルゴの抱っこ紐をしていると、「足がこんなに開いてかわいそうだ」とジロジロ見られたり。

短期間でお手伝いさん(日本人はお手伝いさんをアイさんと呼んでいました)を雇っていたのですが(当時、時給200円、週3日1日5時間で月給12,000円ほどでした)彼女達が自分の子供のように面倒を見てくれたので、まるで家族のように子育てに参加してもらえたことは日本の実家が遠くにある核家族より恵まれていたのかもしれません。

そして上海で暮らし始めて2年目の2011年3月11日。

日本から友人が来ていて一緒に杭州へ行った旅行先で見た、テレビの津波の映像で惨状を知りました。

私達は日本人なのに、こうして中国のテレビで日本の地震の情報を眺めているだけ…。何もできずに呆然とするしかできず、歯がゆい想いで過ごしていましたが

何かしたい!と突き動かされて当時よく使われていたソーシャルネットワークサービスのmixiの掲示板で呼びかけました。「日本の為に一緒に何かしましょう」と。

そこで手を挙げてくれた2人の女性と共に、チャリテイバザーを開催することにし、その際チャリティ活動をするためにみんなが笑顔になれるようにと『みなえみ会』という名前のイベントチームを作りました。

会員は私一人。イベントの都度、賛同してくれた仲間と共にチャリティイベントを開催し、収益金を被災地へ寄付する活動を始めたのです。

結局バザーは合計4回、その後他のイベント(クッキング、手芸、ベビーマッサージなど)を自宅で開催し、総勢30名以上の仲間と共に約50万円を上海日本領事館を経て日本赤十字に寄付することができました。

バザーでは中国人も来てくれ、日本、頑張れ!と応援してくれて胸が熱くなったこともいい思い出として残っています。

その後尖閣問題から抗日デモが発生、在住日本人に対し、見ず知らずの中国人から豆乳をかけられたり石を投げ込まれたりする騒ぎが起き、1週間ほど自宅待機となって怖い思いもしましたが、

中国人のお手伝いさんは「日本人が大好きだ」と言ってくれ嬉しかったり、ベビーカーを押しながらドアを開けようとしたら、さりげなく開けて待っていてくれた中国人女性にありがたくて涙したり。

四面楚歌になることなく、反日感情のあふれる中国で生活できたのは、温かい中国人の存在のおかげでした。

騒動が収まり平穏になると、外出もまた自由にできるようになり、上の子が通う幼稚園のママ達と、朝幼稚園バスを見送ると近くのカフェでモーニング会と称しておしゃべりを楽しみ、そのまま我が家になだれ込みお昼を食べ、結局子供達のお迎え時間まで喋り続けたり…。

と中国での生活を体験しながらも日本人コミュニティにどっぷり浸かった生活を4年ほど過ごし、すっかり中国での生活に馴染めていました。


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2.母の看護のため日本へ につづく

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