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自己紹介を兼ねて…。私がなぜ海外で生活することになったのか。No.3

前回No.2では、肺癌の母を残して上海に戻るところまで書きました。


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2016.3 再び上海へ。


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夫との約束どおり、2年間にわたる母との生活を終え、上海に戻りました。

ちょうど娘達が小学校、幼稚園に上がるタイミングでしたので、事前に必要な手続きはすべて夫がしてくれ、

長女は上海日本人学校、次女はアメリカンスクールの日本語幼稚部へそれぞれ入学、入園し、2年ぶりの上海生活をスタートさせました。


母の病状を気にしつつも、久々の家族4人での生活は自由で気持ちが楽ですべてが…入学入園の諸々の煩雑な作業ですら楽しく感じられました。


2年の間に日本へ帰国されたり、他の国へスライドされた方や、新たに上海へ赴任された方など、顔ぶれが変わっていましたが、すんなり溶け込むことができたのは、子供達のおかげでした。


友人たちと朝から近くのカフェや自宅でモーニングしたり、娘たちを見送って一人きりの時間を満喫したり。

久々の自分一人のための時間に羽を伸ばす毎日。


一方母は、私達が上海に戻ってほどなくホスピスー終末期病棟に入院しました。空きが出たからという連絡を受けて決めた入院ですが、退院する=お空に帰った時。大体3ヶ月くらいで皆さん退院される…。という病棟に母が入ることに、一人時間で浮かれていた私の頭は日本にいた時の現実に戻り、母とこの世界で過ごせる時間のあまりの短さに気持ちがぐらつきました。


私が上海に戻ってしまったせいで、母の生きる気力を奪ってしまったのではないか。

私が一人浮かれている一方で、母は痛みと孤独の中で過ごしているのではないか…。親不孝とはこういうことなのか。


父も健在で、姉も実家から車で7〜8分の距離にいるので私一人が背負わなくてもよかったのですが、一番頼りにしてもらえている、と勘違いし、またそうであってほしいと思っていただろう私は、母に対して申し訳ない気持ちでいっぱい。


上海に戻り1ヶ月が経とうとする4月末に姉から連絡があり、

母の状態が悪くあまり長くないかもしれない。と告げられ、後悔したくないと思った私は娘達を伴い連休を挟んで2週間帰国しました。長女は3日ほど学校を休み、3月まで次女がお世話になっていた民間の保育園に特別に2人とも入れていただけることに。

本来なら義務教育のお子さんを平日預かることはできませんが、事情が事情なので。と言ってくださり、私はありがたく病院に通い詰めることができました。


ホスピスでの母は、ほぼ寝たきりになっていて、肺癌から頸椎に癌が転移し首や腕の痛みが強く、発作が起きるたびに朝夜問わず看護師さんや我々家族で身体をさすったりモルヒネを投与してもらって過ごすような日々。


痛みがない時は冗談が言えたり、テレビの料理番組や旅番組を見ては雑談ができていましたが、痛みが起きると別人のように看護師さんや我々にキツイ言葉をかけ、

あれが食べたい、ここのお店でないと嫌だ、こんなまずいのは要らない、とわがまま三昧で姉と私はくたびれ果てながらも、そんな母と過ごせる残された時間を考えて我慢の看護が続きました。


4月はなんとか持ち越したので、また我々は上海に戻りましたが、夫が10日後の母の日に私一人だけ日本に行かせてくれました。

母には内緒のサプライズで病室に行くと、珍しく車椅子に乗った母が小さく丸まった背中をこちらに向けて窓の外を見ていました。自殺防止に張り巡らされた金網越しの空を。

元気な時は、おしゃれが大好きで颯爽と歩き回り、みんなから素敵なお母さまね、と言われた母の変わり身を目の当たりにし、ぽつんと病室に一人で座っている姿にあふれる涙を飲み込んで、 元気よく

「ただいま〜!」

と声を掛けると、振り向いた母は数秒かたまり、その後満面の笑みに。その笑顔は数年経った今でも鮮やかに蘇ります。

親孝行できた、と言えるならこの日。色んなことがあって、母を置いて上海に戻ってしまった私を母は許してくれた。そして私の帰りをこんなに喜んでくれた。すべては最善だったのだと許された気持ちになれた笑顔でした。

さらにそのひと月後の6月にも一人で帰国させてもらえ、母との二人きりの時間を何度も作ってくれた夫に感謝の気持ちしかありません。

今思えばこれが上海以外の国だったなら、飛行時間も長くなり運賃も高くなるので頻繁には帰国できなかったのかもしれません。

(当時、上海浦東空港から最寄り空港まで片道2時間半で往復料金2〜5万円でした)

娘達が夏休みに入り、すぐに日本に戻って1週間目のある夜、仕事が休みだった叔母がその日はたまたま母の病室に泊まってくれ、上海の友人で3月に本帰国して同じ県に住んでいる友人家族が、その日しか日程が合わずたまたま我が実家に泊まってくれた明け方、叔母からの呼び出しで私は子供達を友人に預け、姉と駆けつけると母が最期の時を迎えつつありました。

さらにたまたま母がお気に入りの看護師さんが当直で、我々姉妹、叔母、看護師さんが母を囲む中、静かに旅立ちました。

そしてまさにその直後上海にいる夫から、

「今から山に登るから出かけるんだけど登山靴はどこにある?」

と電話が入り、

「あのね、たった今母が亡くなったのよ。」

と告げるとビックリして沈黙。登山はキャンセルして夜の便で帰国することに。

泊まりに来てくれた友人が夕方まで我が家にいてくれて、娘達のお世話をしてくれたので、一人で身軽に葬儀の準備や親戚類への連絡に熱中することができました。

悲しさ、寂しさで涙は出てくるものの、たまたまが重なりすぎる母の引き寄せ力を感じずにはいられず、母の思いの強さに感動すら感じた最期でした。


そのまま日本で法要や遺品整理、たくさん来てくださる弔問客の対応に追われ、母の死の喪失感が冷めやらぬ2週間後、夫にタイへの転勤辞令が出ました。

2016年10月1日よりまずは夫のみタイへ、我々3人は12月末まで上海で暮らすことになったのです。


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4.そしてタイへ につづく







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