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春にして君を離れ ── 答えは『勇気』の中にある

以下の続き。答えとは、ここに書いた『どう生きていくか』の答えのこと。↓


不思議なことに、文字通りの家出を決行してから数日後、答えを出すための二つの手がかりに気づいた。

一つは前の記事にコメントをくれた方がいて、その方の言葉が私の心に浸透したことによる。同じ感覚を持つ人、同じ経験を持つ人、がこの世には確実に存在している、と強く実感できた。そして今後行く道をしっかり見定めるために全力を注ごう、と力づけられた。

そしてもう一つは、奇遇にも就寝前に読んでいる小説に、過去私の心に絶大なインパクトを残したとある本を選んでいて再読を進めていたこと、その内容が奇しくも自己探求シリーズで辿り着いた『違和感の正体』そのものを描いていることに気づいたことによる。偶然のようでありながらじつは無意識が選び取っていたのかもしれない。──この小説には、私が他人との違いを感じとってしまう〝あるもの〟がくっきりと描かれているではないか。

それは端的に言って『痛みと向き合う勇気』である。成長のために必要な、自ら選び取る道ゆえに起こる苦痛を受け入れる勇気であり、一段階上へ行くための必須要素となるものである。

過去の心理学者の中に、痛みを伴うこの精神の成長過程を『理論』としてまとめた人がいる。人格成長過程の段階を解明して、まるでそれを頭脳で理解するものであるかのように理論と名付けているなんて、ずいぶん大仰なことだなぁ、と正直思う。しかしこれは本物のHSP、及び本物のHSS型HSPにとって非常に大切な人生の指針となり、支えともなる素晴らしいものである。……これはまた別にまとめてみるつもりだ。人が意味ある人生を送る上で欠かせないものであり、自己のうちに大きな精神世界を見ている人にとって行き着く理論である、と私は強く信じているので、かつてない熱量を持って書きたい。

……この小説を読んだ若い頃には、ここまで解析できなかった。だけど今は正確に把握できる。世の中には『これ』を主人公や登場人物たちが体現していく形で描いている作品があると思う。しかしこの本はそうではない。登場人物たちが体現していくストーリーなのではなく、この世の中に、この成長過程を体現できる人とできない人がいることをはっきりと示し、彼らの間にある精神上の大きな溝を浮き彫りにしているのだ。

その本の名は、アガサ・クリスティー著『春にして君を離れ』である。単に読書好きやミステリ好きの方のみならず、心理分析に興味のある人や人間観察を常としている人にとってはいうまでもなく特別な意味を持つ本であろう。もちろん私にとっても長年そうであった。人間の内面を伶俐な目線で分析し、人と人との見えない壁の大きさを大したストーリー展開もなくして描いた、ある意味心理分析のバイブルとも言いたくなる本だ。もし私が書いているこの記事を読んでくれる方がいたら、以下に書いていく文章は盛大なネタバレでもあるので、未読の方にはぜひ読了してから目を通してほしい。これを知らないで人間の間にある大きな精神の壁は語れない、と私は思っている。

鋭どすぎる人間観察眼

本題に入る前に、私とこの本との出会いを簡単に説明してみる。まず、私はもう何十年も前からアガサ・クリスティーの大ファンである。心から尊敬する作家であり知的に敬愛する女性である。生涯書き著した作品は百冊以上にのぼるが、今の時点で全作品を二巡して読んだ。これから読みたいと思う方にその人に合ったタイトルを選んであげられる程度にはアガサ通である。
ただしクリスティーが好きな「理由」については、世間のファンたちと少し違っているかもしれない。王道の本格ミステリーは骨太で面白いから、などではでない。それ以上に私は、彼女の持つ人間観察眼の鋭さに圧倒されるのだ。そして、著作の中で特別に好きなミステリー作品はいくつかあれど、そのどれよりも恐ろしいと思う物語が、ミステリー作品ではないこの本だった。
勿論トリックもない、事件はおろかセンセーショナルな出来事すら何一つ起きない。にもかかわらず一個の人間の内面において大きな分裂が起きていく様をまざまざと描き、自己の内面に人生の対照的な二つの岐路を見るという自己分析の極みを描き、その背景を成す人間相関関係の「隔たり」と「哀れさ」をリアルに表現してしまった、恐ろしい話である。

本来、日本やイギリスのように自己開示は人目を憚るようにする文化圏において、作者はタブーの域に筆を入れてしまっているのかもしれない(まあ、クリスティーに至っては一般常識を覆した有名作品が他にもあるので言わずもがなだろうか)。初読当時、私は人の心の深淵を覗き見たような恐ろしい読書体験にすっかり心を奪われた。だからアガサクリスティーのファンであることを伝えた人には必ず「一番好きな作品は、ミステリーではない『春にして君を離れ』なんだ」と常に言ってきた。若い頃に読んで何よりも恐ろしいと思った人間心理の壁を描いた話を、数週間前からもう一度読んでみたいと考えて、毎日少しずつ眠る前にページをめくり始めていた。

勇気を持つ人は誰か?

この本のテーマは、先に書いたように人間の内面の分裂、人が自らの人間性を高めるとき非常な苦痛を伴うことになる『正常との分離』を進んで果たすか否か? あなたはそれほどの勇気を持つ人か否か? を問うている。むろんテーマであるゆえ直接そんなことは文字に書かれていない。大抵読者はこの本を読んで、『面白くはあったが恐ろしいとは違うのではないか』『一体これの何が恐ろしいのか』と感じる人と、『ノンミステリーでありながらミステリーよりも恐ろしい本だ』と感じる人の側とに二分されると思う。この点は解説者も指摘していたとおり。……が、これを高次元へ向かう人格形成の過程を『辿れる』能力のある人と『辿れない』能力の人との違いを生々しく表現した本だ、とまで書いている人はそう多くないかもしれない。そしてまた、解説者は見事にその恐ろしさと哀しさをこの本の特徴として指摘していたが(解説者自体がすごい人物だった)、個人的にはもっともっと強調したいことがある。それを今から簡単にまとめてみて、そしてそれがどう、私が今向き合う問題の答えとなり得たのかを結論とする。

人間社会の縮図

世の中には、主人公ジョーン・スカダモアのような人間が確かにいる。かなりの数いる。社会規範に則る生き方に熱心で忠実で、レールを外れまいとの努力を惜しまず、誤りや悪を正そうとの正義感に燃えている人。大抵はジョーンのように真実の姿を覗き込む機会すら持たず、つまり自己欺瞞に気づくことすらなく、そのカチカチ頭で周囲の人や子供に生きづらさを与えるという害を及ぼしている。

そして、ジョーンの息子や娘たちのような人たちもたくさんいる。彼らはジョーンのような人間が持つ愚かさをよく理解している。そして通じるものがないゆえに、悟らせても無駄だと知るゆえに、あえて精神的に距離を置き日々を過ごしている。触らぬ神に祟りなしってやつだ。中には『ジョーンに近づかないための方法』や『ジョーンのようにならない方法』などを最適なアドバイスとして熱心に配信している精神科医やカウンセラーもいる。また、そのように距離を置く術を心得る人の中でも注目に値するのは、理性的で賢く強い意志を持つ人たちだ。彼らは直接ジョーンに反論したり正したりする能力を持ちながら、それを愚者のために使うことを良しとしない。長女のエイブラルのようなタイプだ。冷ややかな目線でジョーンを見て、内心でその愚鈍さと孤独さを哀れんでいる。頭脳明晰で本当の論理思考ができる、この人たちはそこまで多くはいないはず。

……そして。
ジョーンの夫ロドニー・スカダモアのような人、これは社会の中でかなり希少なタイプではないか? ジョーンの愚かさを熟知しながら彼女に直接関わり、寄り添い、自己犠牲を払ってまで彼女の精神の舵を切っている。そもそも自己犠牲を払う道を選ぶ人が少ない。昨今では自分を犠牲にするな、と声高に叫ばれるのが当たり前になっている。

読んでいるうちに、ロドニーの奥ゆかしさと内面的強さに惹かれていく。ジョーンは表面だけの評価社会に対する疑問にぶち当たるという成長の絶好の機会を得たのに、その解決策まで自らの力で気づいたというのに、結局それを放棄して自己欺瞞の道へと舞い戻ってしまった。むろん長年尽くしてきたと信じている相手に対して自らを悔い改めて赦しを乞わねばならない、という痛みを経験することになるから、それを選び取る勇気を持てなかったのだ。彼女は疑問から覗き見た上の人格へと昇る道を行くことなく、怠惰にも社会の一般通念の中へ再び身を沈めた。

一方ロドニーにとっての疑問と課題は、そんな哀れなジョーンをどう扱うか、だったと思う。ジョーンに真実の姿を教えてあげなかったロドニー。彼女が苦しむ姿を見るのを意図的に避けたロドニー。それは利他精神に基づく愛ゆえか? いや、彼は結局ジョーンに真実を伝えることにより発生する自らの課題、苦痛を避けたのではないだろうか? (それとも哀れなジョーンをそのままにすることで彼なりの復讐を果たしたのか。)

だからこそ、彼はレスリー・シャーストンに愛だけではなく、強い『憧れ』を抱いたのだと思う。そう、レスリーこそ、この話の中で唯一無二の人だった……。彼女こそ真の勇気を持つ人だった。彼女は世間からの誤解をものともせず、自らの強い意志により、責任を果たす道を選び取ったのだ。はたから見ると哀れな女性に見えただろう。しかし彼女は人類の中にそうそう存在しない強い精神の輝きを持つ人だった。そして人生にとって大切なものが何であるか、全てを理解していた。子供たちにも痛みの味を知らせることすら躊躇わず、決意までしていたことからそれがうかがえる。常識だけに囚われた親なら子供を精神の苦痛から守ろうと必死になるだろう。しかし彼女はその苦痛とそれに向き合う勇気こそが、人格的飛躍をもたらす要素になり得ることをちゃんと知っていたのだ。彼女は勇気の人だ。この勇気に、あの人格的に優れた愛すべきロドニーすら行きつかなった。コペルニクスのことを考えていたレスリーの最後の姿を彼は目を閉じて意識の中に想いみる。彼は亡くなったレスリーを心の部屋の椅子に座らせて、生涯彼女の勇気を眩しい目で眺めて生きたのだろう。

社会規範に疑問すら持たず準じるだけで生きる人。そこに疑問を抱く人。疑問と向き合い感情的にもがき苦しむ人。苦し過ぎるから疑問自体を打ち消してしまう人。苦しさと対峙し、そこから独自の道を創りあげる人。その独自の道を行くために安定した精神から進んで自己を切り離すという苦痛を、勇気を以て選び取る人。苦痛は外側から見ると『哀れ』とすら映る。だがこれを知る人にとってその選び取った道は、新たな幸いなる世界なのである。他の人には見えない新たな自分軸なのである。この本でいうところのコペルニクスの世界観だ。

だから、この本を読む人もまた、ロドニーが胸ポケットからレスリーの墓前に落とした花の赤さを血だと感じ取れる人と取れない人に分かれる……と同時に、レスリーが幸福な人であったことを感じ取れる人、取れない人とにくっきり分かれる。

なんと、この本には世間に存在するあらゆる人の道が描かれている。アガサ・クリスティーは何もかも知っていたのだろう。心の中にこの手の勇気を持つ人をここまで生々しく描いた彼女こそ、また並大抵の頭脳と精神の持ち主ではない。

結論 勇気ある道から逸れないために……

私はレスリーのようでありたい、と願う。……でもどうだろう。私にそこまでの勇気はあるだろうか? おそらくこれを成し得る人こそ真にギフテッドと呼ばれる人たちなのだろう。私はレスリーを椅子に座らせて憧れ続けた、そして愛し続けた、ロドニーの方に近いのかもしれない。前に書いたみにくいアヒルの子みたいに。だけど子供の頃の私は、確かにレスリーの勇気に手を伸ばす人だったような気がする。今後の自分やポテンシャルの話をすればまた長くなるので、今回はここまでにする。

……とにかく今、春にして私自身が実際に日常生活を離れて苦しみながら手にした真実は、この痛みに向き合う勇気こそが人として目指すべき、掴み取るべきものだ、と言えるということ。……このタイプの勇気を掴み取ることは、敏感気質に生まれてきた人に与えられたチャンスである。精神の豊かさを持つ人のみが成し得る選択なのだから。

このようなnoteで、また自作の小説の中で、私は息をするように自然体で文章を書きながら、これからもそれを追い続けていこう。ロドニーのように結局自分にも相手にも自己欺瞞となってしまうような選択を私はしたくない、決して! だから、「これが自分だ!」と臆さず表現して、実生活と向き合うことに決めた。わかってもらえない、ではなくて、わかってもらえる所までわかってもらおう。直接にも言葉にして努力しよう。誤解されるのを恐れるな。誤解されて人間関係の歪みや乖離が生じ新たな苦痛が生まれるとしても、勇気を出してそれを選び取れる人であろう。孤独であっても己の力で幸福を生み出したレスリーの姿に一歩ずつでも近づいていこう。……そう決意して、家に戻った。

私のように死の淵を覗くほどに自己分析を進め悩んでしまっている同じ気質の方、内省をとことん深めて苦しんでしまう繊細でいながら強くもある方、そんな人たちに、いつか何かを届けられるような文章を書いてみたいと思う。自己満足に終わらず、上の道を行こうともがく人の心に、言葉で小さな勇気の灯を点す人になれるといいなと思う。クリスティーが遺してくれたように、諸行無常の世にあってこの文字という不変の記号を用い、未来の誰かにそれを一欠片でもいいから遺してみたい。

いつだって、勇気の中にこそ答えがある。

ジョーン:「勇気ですって? そうねえ、でも勇気がすべてじゃありませんわ」
ロドニー:「そうじゃないかね?」

アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』より(名前は追加)

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