寅年記念の記事:『山月記』をより楽しむための表現に関する雑話
あけましておめでとうございます、本年もよろしくお願いします。この記事はタイトルのように寅年を記念して虎に関する作品を取り上げたいと思い、『山月記』をよりたのしむための表現に関する雑話という内容で記事を書いてみましたので、お暇な時に読んでみてください。
本文が手元にない方のために、青空文庫のリンクを載せておきます。
青空文庫『山月記』(https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html)
『山月記』の主人公は李徴、そして副主人公は袁傪となっています。とはいえ、そもそも二人以外主たる登場人物はいない作品と言えます。まず内容を簡単に確認してみましょう。冒頭部分では李徴が発狂し、虎になる経緯が説明されます。ただしこの時点では虎になった理由は示されません。李徴が失踪して1年後に失踪した側を通りかかった親友の袁傪が虎となった李徴に出会います。李徴は叢の中から袁傪に、①虎になった経緯の詳細と虎になった後の生活、②詩業への思いと即席の詩、③自己分析と虎になった原因の考察、④家族のことと自省という4つの内容を語ります。そして、語り終えた李徴は袁傪に別れの言葉を述べた後、叢から飛び出しその虎の姿を示して人間界との訣別をして去るという形で終わります。
では、早速それぞれの内容と表現を見ながらもう少し作品に迫っていきましょう。まずは出会いのシーンに関係する「躍り出る」という表現について見ていきます。
○「躍り出る」という表現について
出会いのシーン
残月の光を頼りに林中の草地を通っていったとき、果たして一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。
「躍り出た」という表現からもわかるように、その登場の仕方がいかにも狩りをする虎らしい勢いを感じさせるものとなっています。その後に「危ないところだった」という台詞があることからも飛び出すまでは虎としての意識が強く、叢から飛び出して袁傪の姿を目にした李徴は人としての意識を取り戻し、叢の中へと引き返しています。人間の意識を取り戻させた袁傪がいかに李徴にとって大きな存在だったかということが暗に示されている部分とも言えます。
別れのシーン
たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、もとの叢に踊り入って、再びその姿を見なかった。
ここでも叢から登場する勢いを「踊り出た」と表現されており、虎としての意識が強いシーンでは使われているように見えます。そのせいか、「躍り入った」と通常は使わない表現も用いられており、虎らしさの象徴的な表現として機能しています。袁傪に出会ったことで人間の意識を取り戻すものの、虎として生きる決意をした李徴は別れ際では虎としての意識が優位となった行動をしています。実際李朝はその点に自覚的に理解しており、別れる直前に李徴は袁傪に「帰途には決してこの道を通らないでほしい、そのときには自分が酔っていて故人を認めずに襲い掛かるかもしれないから」と告げています。この点からも別れのシーンでの虎としての意識の強さが見えてくるわけですが、それを引き立てる表現の1つとして「躍り出る」と「踊り入る」があると言えるのです。
○4つの李徴の語りを支える三人称の語り手
既に触れたように李徴は袁傪に4つの内容を語ります。この語りが『山月記』の物語の主たる部分となっていることもあり、一人語りの部分が長大になっています。地の文なのか、それとも李徴の語りなのかはしっかり読んでいれば区別をつけることができますが、あまり意識していないと見逃す可能性はあります。ただ『山月記』の場合はそれを避けるために一人語りが始まることが明白に示されています。例えば、最初の語りである、①虎になった経緯の詳細と虎になった後の生活の直前に、「草中の声は次のように語った」とありここから李徴の一人語りが始まることがわかります。②詩業への思いと即席の詩の直前には、「声は続けて言う」とあるだけでなく、②詩業への思いと即席の詩の段落は袁傪の評価も入るため李徴の語りと地の文が交互に出てくる部分ですが、一人語りが始まる前には「自らを嘲るがごとくに言った」や「その詩に言う」と毎回明示されています。③自己分析と虎になった原因の考察についてもやはり「李徴の声は再び続ける」と語り始めのマークが示されていますが、④家族のことと自省については、「ようやく辺りの暗さが薄らいできた。木の間を伝って、どこからか、暁角が悲しげに響き始めた」という時間変化の表現のみで示されており、唯一一人語りを予示する表現がありません。これは李徴の後の台詞で謎が解けるようになっています。「本当は、まず、このことのほうを先にお願いすべきだったのだ、俺が人間だったなら」と家族のことを述べなかった自分を反省しているように、①〜③は続けて一気に語り、その語りに満足したからこそ冷静さを取り戻し、その冷静な頭で改めて言うべきことを言い残したと言うわけです。つまり、①〜③と④は語りの姿勢や質が異なるわけですが、それを一人語りを予示する表現で示しています。ただ人間としての意識を取り戻した段落ですら、③で考察した虎になった原因をまさに成してしまっており、虎としての本質は人間の意識を取り戻したはずの語りが改めて証明してしまっているという悲劇性が伝わる表現となっているのです。要は、自分を優先し、他人に対する配慮を向けられないような、人間としてふさわしい態度を取れていないことが思い出話の中だけでなく現在の語りそのものにも表れているというわけなのです。
○『山月記』という題にある「山」と「月」が描き出す悲哀
山と月はセットで用いられていることが多いです。特徴的な部分はまずは詩の中です。
此夕渓山対明月 不成長嘯但成暭
(此の夕べ渓山明月に対し 長嘯を成さずして但だ暭を成すのみ)
「夜に渓山に登って明月に向かって声を長く引き伸ばして詩を吟じることをせずただ吠えるのみである」といった意味です。この描写は後の自己分析を終えた最後の結論部分にも出てきます。
そういうとき、俺は、向こうの山の頂の巌に上り、空谷に向かってほえる。この胸を焼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。俺はゆうべも、あそこで月に向かってほえた。
「そういうとき」とは、臆病な自尊心と尊大な羞恥心により、自身の才能の無さが露見するのを恐れるとともに、才能があると自負し努力を厭うような行動をしてきた自身の過去に対する後悔があるのにも関わらず、虎になってしまった今となっては取り返しがつかなくなったと感じ胸を焼かれるような悔いを抱くとき、といった内容です。とはいえ、重要なのはやはり「山の頂の巌に上り」「月に向かってほえた」という部分です。ここで考察をせずにもう一箇所「月」に関する表現がある物語の最後を見ましょう。
虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、
ここでは明月ではなく「光を失った月」に向かって「咆哮し」ているという他の部分との差が見えます。また、この箇所だけは「虎」となっているように既に人間としての意識はなく虎になった後という違いがあります。つまり、人間の意識があった時には輝いていた月は、虎の意識になった時にはその輝きを無くしてしまいます。最初に見た詩ではその月に向かって詩を吟じたいができないし、その月に近づこうと山の頂の巌という最も高い位置に立ってもやはりほえるだけで終わってしまうということからも、一義的には「月」は詩業で成功する才能を示していると言えるでしょう。つまり、詩業で成功する才能に憧れるも及ばず慟哭するだけで終わってしまっているのです。そしての詩業で成功する才能は他者を思い、恥を捨てて努力する人間性も含んでいるでしょう。だからこそ、人ではなくなった虎にとって月はもう理想でも憧れでもなく空に浮かんでいるだけのものとなってしまったことを最後のシーンで象徴的に描き出しているのです。
『山月記』は悲劇です。自分の過ちに気づいたがもう取り返しがつかない状況になってしまった才能を持つ人間の悲劇と言える作品です。虎の出てくる有名作品とはいえ、新年の明るい雰囲気に合っていないというかもしれませんが、一年の計は元旦にありと言うように元旦に努力をする大切さについて気づかせてくれる『山月記』に触れるというのは良い機会になるかと思いますので、新年最初の記事に選んでみました。せっかくの機会ですので、李徴のように怠惰にならず行動してみるきっかけにしてもらえたらと思います。
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