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昔も今も変わらない古典の雑話―『枕草子』「思はむ子を法師になしたらむこそは」を通して―

 今日は古典関係の記事の番外編的な内容で、古典を少しでも身近に感じるような機会になればという記事なっています。
 今回も『枕草子』から取ってきました。随筆ということもあり、今でも共感できるような話が多いので、題材に向いているという側面があります。
 
【本文】
 思はむ子を法師になしたらむこそは、いと心苦しけれ。さるは、いとたのもしきわざをただ木の端などのやうに思ひたらむ、いといとほし。
 精進のもののあしきを食ひ、寝ぬるをもいふ。若きはものもゆかしからむ。女などのありどころをも、などか忌たるやうにさしのぞかずもあらむ。それもやすからずいふ。
 まして、験者などのかたはいと苦しげなり。御嶽・熊野、かからぬ山なくありくほどに、おそろしき目も見、しるしある聞え出で来ぬれば、ここかしこに呼ばれ、時めくにつけてやすげもなし。いたくわづらふ人にかかりて、物のけ調ずるもいと苦しければ、困じてうち眠れば、「ねぶりなどのみして」ととがむるもいとところせく、いかに思はむと。
 これはむかしのことなり。いまやうはやすげなり。
 
【訳】
〔 〕内は補わないとわかりづらい部分
【 】内は知識等が必要で言い換えや説明を付したもの
【かわいいと】思うような子を法師にした時は、本当に胸が痛いことである。とはいえ、〔法師は〕【「一子出家すれば九族天に生ず」などと言う】心強い仕事〔であるのにその仕事〕をまるで木石のように人情を理解しないもののように〔世の人は〕思っているのは、気の毒なことだ。
 〔法師が〕精進物の粗末なものを食い、寝る時間の行いのこと【僧の修行の一つで夜寝ずに勤めのこと】をも〔世の人はやかましく〕言う。若い法師は好奇心も強いことであろう。女性がいるところを、どうして忌みはばかるようにちょっと覗いてみないでいられようか〔いや、いられない〕。〔ところが〕ちょっと覗き見ることをもってのほかであると〔世の人は〕言う。
 〔一般の法師でもこのような扱いを受けるので〕まして、修験者などの方は大層苦しそうである。吉野の金峰山や熊野三所を登らぬ山もなくめぐり歩いているうちに、恐ろしい目にもあい、〔祈祷の〕霊験があるという評判が立ってくると、あちらこちらに呼ばれ、世間からもてはやされるにつれて落ち着きもしない。ひどく病気で悩んでいる人の治療に従事して、もののけを調伏するのもたいそう苦しいので、困憊してついうとうととすると、「眠ってばかり居て」と非難するのも窮屈なことで、どのように思うだろうか【どんなにつらく思っているだろうか】と。
 これは昔のことである。今時の法師や修験者の生活は気楽そうである。
 
 法師についての基礎知識として、日本では「出家」と「入道」を区別しています。「出家」は文字通り家から出て、寺に入ることを指し、「入道」は在家で剃髪したことを指します。出家は永遠の別れ、今生の別れとも言われるように、家に帰ってくることはないと考えた方が良いです。だからこそ、出家を思い悩んだり、出家する家族を泣きながら見送ったりといったシーンが描かれたとしても特に不思議なことではないとわかります。それにもかかわらず出家したのは、「一子出家すれば九族天に生ず」という言葉の通り、自分だけでなく九代【高祖・曽祖・祖父・父・自分・子・孫・曾孫・玄孫】に渡って成仏できるため、わざわざ出家したという訳です。言ってしまえば家族のために出家したわけですが、その出家した法師には苦難が多いというのが今回の本文です。苦難の内容が法師としての修行の辛さではなく世間の人からの評価によるところが大きいというのが面白いところです。ただこのような傾向は昔のことで今はないというのがこの話の結びとなっています。
ただ翻って考えてみると、専門職の人が世間の厳しい目に晒されると言う事態はむしろ平安時代で終わったと言うことはできないと思います。実際、現代でも警察官や消防士がコンビニや飲食店を訪れて昼休みの休憩をしていたら、「休むんじゃない」とクレームが来たという話を聞くことがあります。また、教員や医療関係者や公務員は誰もが善人で悪事を働くことはないから不祥事があると批判するという目にすることだと思います。
こうみると、人の本質は余り変わらないように思えてしまうものですね。古典は確かに昔の日本の文化や伝統を知り、そこから現代の文化や慣習や生き方を多角的に捉え直す機会を提供するという側面がありますが、変わらないものも存在するという点を知るのもまた古典を読む意味と言えます。今回は古典の世界と現代の世界が少しでも近くにあると感じてもらえたらと思い、紹介してみました。これを機に少し古典を読んでみようという気持ちになったら何よりです。

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