言葉を凶器にしたら、いつか心はいなくなる
仕事終わりのバスの中。
少しずつ夜になっていく夏特有の空を眺めるのに飽きて、さっきまで見ていたiPhoneのロックを解除した。
Twitterの画面をなんとなく指で動かしていると、芸能ニュースの公式アカウントが悲しいニュースをツイートしていた。
とある方の急な訃報だった。
私は、その方の熱狂的なファンだったわけではない。ただ、本当に悲しくなった。
1つの命が消えてしまったことにも、また言葉が凶器になったことにも。
もちろん、なぜその方が亡くなってしまったのか、その真意は本人にしか分からない。メディアが発信している情報で推測するしかできない。
ただ、報道されている情報が事実なら、大多数の言葉がその方の心を突き刺したということだ。
言葉が、また、凶器になってしまった。
著名人には誹謗中傷がつきもの。
悪口を言われるだけ注目されている証。
非難されたくないなら、辞めたらいい。
何を言おうが、自由でしょ。
著名人だから、中傷していいのだろうか。
自分のアイデンティティをまっすぐ貫き通して、自分らしさを大切にしていた方へ、何千何万もの尖った言葉を投げつけるべき理由はあったのだろうか。
これは著名人に限らない。
もしあなたが、同じくSNSで不特定多数から言葉の暴力を受けたとしたら。
あなたに限らず、あなたの家族や友人、大切な人たちがそうなったら。
言葉を投げかけてきた人から「何を言おうが、自由でしょ。」と吐き捨てられたら。
想像してほしい。
この文章を書きながら、「凶器」と「狂気」は同じだと思った。読み方だけではなく、人を傷つける道具は、まさしく人間の狂った感情が具現化されたものである。
狂気を込めた言葉は凶器となり、誰かを消してしまうかもしれない。
そして、凶器を振るった人自身の心も、いつか消えてしまう。
言葉を紡いで発信することが好きな私は、人々の目に触れる前に必ず自分の文章・言葉を読む。
万人ウケする文章を目指しているわけではない。読んでくれた人が悲しい気持ちにならないか、私個人の感情・意見として文章ができているかを確かめるためだ。
私は、凶器として言葉を使いたくない。
自分の心も、私の読みものを読んでくれる方も傷つけないために。
顔も知らない人と、通じ合える。これが、本来の言葉の力だと信じていたい。
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