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『主の祈り』が最強な件。

「主の祈り」とはイエス様が教えてくれたお祈りの見本である。

そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、
『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。
わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。
わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、
わたしたちの罪をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないでください

ルカ11章2〜4

昔からこのお祈りの存在は知っていたけど、ピンときていなかった。
心にも思ってないことをお祈りするというのが、
なんだか呪文を唱えているように感じていたのだ。

でも、ある時ハッと気がついた。
聖書を読んでからというもの「主の祈り」が最強な祈りであるということに。
いつの間にか腑に落ちていたのだ。
この主の祈りについて考察していきたい。

🔹天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。

巷には神を冒涜するものが溢れ、サタンを崇めるものが牛耳るこの世界。
気持ち悪い道徳が正義のフリしてのさばっていて
政治も、マスコミも自らの不祥事を隠すことに精一杯だ。
Youtubeひとつ例にとってみても、再生回数が多いのは迷惑系・爆買い系・エロ系・暴露系などなど、まるで終末の人間図鑑の様相だ。
パウロが、終わりの日には↓↓こんな奴ら↓↓が増えると言った言葉とおり。

「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

テモテ2 3章1〜6


もう天国早よ!神様早よ来て!!と毎日思う。
祈りの冒頭から共感マックスである。
息が吸えてるのは神様のおかげだ。生活できてるのは神様のおかげだ。
そういった神様が毎日してくれることに感謝を表明し、意識する。
そして、再臨を待ち望む。
このくっそたれな世界に囚われた我々は、
ここから解放されることが約束されているから、
悪魔と同化している場合ではないのだ。

🔹みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

神様のみこころは全員誰ひとりとして悪魔と一緒に地獄で滅びないようにすること。人間にとってそれ以上に大事なことはない。
絶対に悪魔の行いを真似して道連れにされてはいけない。
神様は、それぞれの人にとって一番よい選択肢をご存知だ。
自分の考えよりも、神様の御心の方に任せるのがいいに決まっている。
これに気がつくと、神様の御心が行われるように祈りたくなる。
逆にこれだけでいいんじゃないかってくらいだ。
もし、自分にとって意にそぐわないことが起きても、
それが神様の御心だったんだろうな・・なんてその意味を洞察するようになる。
後から考えると理由もわかってきたりする。
これから世界政府ができて、私達は命をかけることになるかもしれない。
でも、神様を信用して、そのみこころがなされますようにと祈る。

🔹わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。

ご飯食べられることは感謝すべきこと!
個人的には借金で極貧生活という苦難を強いられたおかげで
神様がいかにミラクルな方法で私を養ってくれていたかを知ることができた。
金がある時には慢心して絶対に気がつけなかったことだ。
今日もご飯がありますように。

🔹わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。

誰かを許すからこそ、許される。
許してない人がいたら私も許されない。
”まあ、いっか”の精神は大事。
自分でも気がついてない負債がまだ残されているかもしれないから
総決算しておかなければならない。

あいつ、なんかムカつくけど、許さないといけない。
だから許せる心をください。
私も許してください。

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう

マタイ6章14−15

🔹わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

みんな割と気が付かずナチュラルに悪霊に襲われてるんじゃないかと思う。
昼も夜も告発するため、悪霊は罪へ陥れようと企んでくる。

この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。
その時わたしは、大きな声が天でこう言うのを聞いた、
「今や、われらの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。
われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、
投げ落された。

ヨハネ黙示録12章9−10

悪霊って目に見えないけど、物理的に誰かに憑依して
うざったいことしてくるくらいのことはしてくる。
実際にこないだ、その手の攻撃を1日のうちに何回も受けて嫌になった。
誤解を招きそうなので詳細は書けないけど、
私もついつい、悪霊の挑発にのってイラついてしまう。
右の頬をぶたれたら、左の頬を向けるなんて、今の私にはとても無理な話で、
ぶたれたら秒で殴り返すだろう。でも歯を食いしばって我慢するしかない。
いつかこの私の弱さも変えられると信じる。

悪魔は、こうした私の失態を昼も夜も神様に告げ口してるに決まってる。
うざいやつ。
しかし、ヨブみたいに忍耐ができないから、最初からそういう試みに遭わないよう祈る。


かつて、お祈りというものは何て頼りないのだ、と思っていた。
神様を信用していなかったからだ。
お祈りしても一方通行で、本当に聞いてるのかわからないし、
たくさんのクリスチャンの中で、底辺にいる自分なんかのお祈りなど
気にも留めてないのではないかと思っていた。
でも、聖書を読んでからは、神様の輪郭が出てきて、
自分が誰に向かって話すべきかを理解できた。
猫の体調のこと、生活費のこと、親の健康のこと、それらの日常の細かい心配ごとがあるたびに神様を頼るということを繰り返していくうちに
お祈りがきかれているという確信がもてるようになってきた。

試練って嫌だけど、試練の時は本気で懇願するから、届いてると感じるし、
実際、試練をいつの間にか乗り越えてたりする。
人がバンジージャンプで飛び込めるのは綱を信用しているからであり、
それと同じように、神様を信頼して苦難に飛び込んでいく。
大丈夫、なんとかなるさ。
ダメだったならそれがみこころだと思って奈落へ落ちていくのみ。
でも、ダメだったことがない。
だから、信頼できる。
お祈りをきいてくれる神様がいてくれることに感謝だ。
生きている間の特権なのだ。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

ヤコブの手紙1章2〜4節



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