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王様の耳はロバの耳

ここは私にとっての洞穴。

私が関係するセブンスデーアドベンチスト教会の
「ここが変だよ」という思いを洞穴に叫ぶ。

ほかの教会の人やノンクリスチャンの方は
時間の無駄になるので、戻るボタンを押してください。
※かえって惑わされる可能性があるので、
聖書未読の人はエレン本は読まないように注意喚起するものである。













ウィリアム・ミラー


ウイリアム・ミラー氏

独自の計算で再臨日を特定し
「イエス様が1844年10月22日にやってくる」と言い広めた
ウィリアム・ミラーという男がいる。
ウィリアム・ミラーは1831年までフリーメイソンだったという話がある。
(フリーメイソンって辞任できるの?)


ウィリアムミラーの再臨説を信じてしまった人は、10万人規模で
家を売ったり、仕事を辞めたりしてしまった人もいた。
これのせいで信仰すら無くしてしまった人もいたという。

しかし、こうした偽情報について
イエス様は2000年前に事前に注意喚起をしていた。

そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、
信じてはならない。
24偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、
できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
25あなたがたには前もって言っておく。
26だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。
27稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。
28死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」

マタイによる福音書24章

聖書には、
イエス様がくる時は「いなずまのように現れる」と書いてある。
いまずまというものは、計算で事前に日付指定できるような代物ではない。
周りが暗くなり、雷鳴が轟くという前兆があり、突然にひらめくものだ。

だから1844年に起きたひとつだけ確かなことは
イエス様は地上にやって来なかったばかりか、
多くの選ばれた人が惑わされたということだ。
そう言う意味でイエス様の預言は成就したと言える。

ウィリアムミラーは、この失敗について公に認めたという話がある。

「私たちはその時、キリストの個人的な到来を期待していました。
そして今、私たちが間違っていなかったと主張することは不誠実です。
私たちはすべての過ちを率直に告白することを決して恥じるべきではありません。私は、その運動から成長した新しい理論のいずれにも自信がありません。
つまり、キリストが花婿として来たこと、慈悲の扉が閉じられたこと、罪人のための救いがないこと、7番目のトランペ ットが鳴ったこと、またはそれが何らかの意味で預言の成就であったこと。」

https://blog.lifeassuranceministries.org/2017/10/25/dear-adventist-have-you-mulled-over-miller/


本人はその4年後に死亡しているから、この説ごと消滅するかと思いきや
1844年を手放せない少数のグループが出現した。
たった一人の勘違いから、以下の表のような分裂が起きてしまった。

https://en.wikipedia.org/wiki/William_Miller_(preacher)


セブンスデーアドベンチストは、この1844年をいまだに手放せない教団だ。

「ダニエル書の2300日の預言期間が終了した1844年に、
贖罪の働きの第二の、そして最後の段階に入られた。」
と教えている。

再臨前調査審判


教会の預言者であるエレンGホワイトの言葉を借りて
説明するとこういうことだ。


エレンGホワイト

キリストは、彼らが期待していた地上にではなくて、型において予表されていたように、天にある神の宮の至聖所に来られたのであった。


『地上での再臨ではなく、至聖所に来られた』
という主張を聞いて、真っ先に思ったことは
『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない
とイエス様が言った御言葉だ。

26だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。

マタイによる福音書24章

セブンスデーアドベンチストではこの至聖所に再臨したという教えを
通称「再臨前調査審判」と呼んでいる。
通常の礼拝ではあまり語られていないのでコアな信者だけが知っている感じ。
ただ、今期の聖書研究ガイドにのってるせいで
各地の牧師さんが「調査審判」について説明するはめになっていた。

youtubeでいろいろな解説を巡っていて思ったのは、
ある意味わかってる牧師さんは「調査審判」について
モゴモゴと正しく(?)教えていない様に見えた。
”再臨の前に審査されてる”とか
”イエス様が天の至聖所でとりなしてくれてる”
くらいの説明に留めていた様子だ。

皮肉にも調べてるうちに
牧師さんより詳しくなってしまったかとすら思ったけど、
そういう訳ではないだろう。

いくら牧師さんの努力で
「調査審判」の教理と「聖書」の距離を近づけようとしても
エレンGホワイトはそういう思考ではなかったようだ。


以下引用


調査審判と罪をぬぐい去る働きは、主の再臨の前に完了しなければならない。
死者は、書物に記録されたことによって裁かれるのであるから、彼らが調査されるその審判が終わるまでは、彼らの罪はぬぐい去られることはできない。(中略)
調査審判が終わると、キリストは来られる。そして、たずさえて来た報いを、
それぞれの人の行いにしたがってお与えになるのである。(中略)審判が指定されていた時、すなわち、2300日の終わる1844年に、調査と罪の除去の働きが始まった。これまでにキリストの名をとなえたことのある者はすべて、この厳密な審査を受けなければならない。生きている者も死んだ者もともに「そのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって」裁かれる。



このエレンGホワイトの主張は「イエス様は1844年から至聖所に再臨し、
信者の罪の調査と罪の除去の働きをしている」
というものだ。 
これがセブンスデーアドベンチストの土台となっている。

たとえ調査をするにしても1844年からって何なのだろう。
そんなに時間がかからず神様は一瞬で見抜くだろう。
それどころか、むしろ、イエス様の十字架の血だけではもの足りず、
1844年になるまでも罪が除去されず、
信者の罪を調査し終わるまで救われないということになる。

これを聞くと、脳内に浮かんでくるのは
「イエス様ー🎶」と喜びながら駆け寄った人の間に、
サッとエレンGホワイトが立ちはだかり
「あなたはまだ汚れている!」と
アルコール除菌をシュッシュッと吹きつけてくる映像だ。

要するに、イエス様の十字架の贖いを否定していることにならないだろうか。
エレン本のものすごく長い文章により
着地が聖書と同じように見えたとしても
よく考えるとそうなってしまう。
だからこそ、牧師さんたちも歯切れが悪いんだと思う。

聖書には、
イエス様は一度だけで完璧に十字架の血によって私たちを清めてくれたとある。

8ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、
9次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。
すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。 10この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。

11こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
12しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、 13それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
14彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。
15聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、

16「わたしが、それらの日の後、
彼らに対して立てようとする契約はこれであると、
主が言われる。
わたしの律法を彼らの心に与え、
彼らの思いのうちに書きつけよう」

と言い、 17さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。 18これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。

ヘブル人への手紙10章

イエス様の十字架の血によって
私たちは完全にきよめられ神様のものになった。
イエス様の甦りは私たちも同じように
新しい命に生きるようになった証明となる。
これを信じる人は、その時点で、完全な罪の赦しが与えられ、
神との関係が回復し、「神の子供」となる。
生贄なしでも大胆に神様に近づけるようになって
天で聖霊を送って心を変えてくれるように助けてくれてるのが
イエス様の働きだ。
イエス様の「福音」を信じた人には行いに応じた報いが待っている。

16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。 18彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。 19そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。 20悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。 21しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

ヨハネの福音書3章

アザゼルの山羊


この「再臨前調査審判」は最終的に聖所にたまった罪を
処理をしないといけないらしく
それが旧約時代の聖所の働きで表されているそうだ。

そこで出てくるのは「アザゼルの山羊」。
「アザゼルの山羊」が何を象徴しているのかについて
エレンGホワイトと、一般の教会では真逆の解釈をしている。


以下引用


祭司が聖所から罪を除去した時に、アザゼルの山羊の上にそれを告白したように、キリストは、罪の創始者であり煽動者であるサタンの上に、これらの罪をすべて置かれるのである。アザゼルの山羊は、イスラエルの罪を負って、「人里離れた地」に送られた(レビ16:22)。そのように、サタンは、自分が神の民に犯させたすべての罪を背負って、1000年の間、この地上に監禁される。地上はその時、荒れ果てて住む者もいない。そして彼は、ついに、すべての悪人を滅ぼす火の中で、罪の刑罰を余さず受ける。こうして、罪は最終的に除去され、進んで悪を捨て去った人々がすべて救われて、贖いの大計画は完成するのである。



エレンGホワイトの説明では、
最終的にクリスチャンの罪はサタンに負わせることになっている。

一方で他の教会は
イエスキリストを予表しているという解釈をしている。


2頭の山羊は、イエス・キリストを予表しています。私たちの罪はキリストの十字架によって贖われ、私たちは罪ののろいから解放されました。



これについても全く正反対の解釈で正直言って、震え上がります。
アザゼルの山羊は「スケープゴート」の語源となっている。
スケープゴートされたのはどちらなのかということだ。


またここでもエレンGホワイトがいう1000年王国の描写には
聖書と相違がみられる。
ヨハネの黙示録には、サタンは秒で御使にとらえられ、
1000年が終わるまで底知れぬところに投げ込まれると書いてある。
だから「地上で監禁」でもないし、「罪も背負って」とも書いてない。

1またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。 2彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、 3そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。

ヨハネの黙示録20章


拝啓 セブンスデーアドベンチスト様


誰も読んでないとは思いますが、こうして記事にしてみます。
面と向かって言うと議論の罠に誘われそうだからです。
私は個人的にこの「再臨前調査審判」の教えは受け入れられません。
エレンGホワイトの本で信仰に導かれたという人がいることは知っています。
私の母がそうです。だからその信仰を否定するものではありません。
聖書で一致している部分は受け入れています。

しかしながら、その教師が正しい事を語っているからといって、
他のすべても正しいとは限らないということです。

聖書には異端は密かにもちこまれると注意喚起がある以上は、
気をつけた方がいいことだと思います。


にせ預言者を警戒せよ。
彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、
その内側は強欲なおおかみである。
マタイによる福音書 7:15  

1かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、 2しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。

ペテロの手紙2章

幼い頃から知ってる教会の皆さんには、変な教えで騙されてほしくありません。
みんなで救われたいからこそ一緒に考えたいのです。
自分が正しいと主張したいわけではなくて、
教えがあまりにも何かおかしいからです。
「福音」を”信じる”ことで救われるのなら、
何を信じるかはとても大きなことだと思います。
エバは蛇を信じてしまったことでリンゴを食べるという行動に出ました。

「再臨前調査審判」を鵜呑みにしてしまうと、気が付かないうちに
イエス様の十字架を否定してしまう恐れがあるように感じます。
聖書には書いてない教えなので、穴埋めはエレンGホワイトの幻で補完されます。
そうなると聖書からの逸脱に気が付かず、
だんだんエレンGホワイトの方が真理を語ってるように思えてきます。
やがて、他の教会よりも真理を知っているという高慢が生まれてきてしまいます。


最終的には、エレン先生にならって
「日曜礼拝は獣の刻印だからあの人たちは救われない」
と神に先立って勝手に裁くようになっていく・・・。

もうそうなってしまったら
もはや「エレンGホワイト教」だと思います。
そういう変な教えの匂いがあるから、
いつまでたっても若い人が教会に寄りつかないんだと思います。

極端な例だけど実際に、
エレンGホワイトの教えが攻撃されると、ものすごく怒る人がいます。
そして、ネット上で個人攻撃に走ってしまうような人もいます。

※追記
また、側から見てると「日曜礼拝が獣の刻印」であるという断定が心配です。

他の可能性を排除するような文面には違和感を覚えます。再臨日を特定したときの失敗のように、
獣の刻印は日曜礼拝だと断定誘導することは、みんなを穴に誘う危険なことだと思います。
ほとんどの教会は与えられた教科書をそのまま教えらるにとどまっています。こういった他の可能性の排除は、疑問をもった人が口に出すことすらできなくなる土壌が出来上がります。サタンがそれを狙っていたとしたら・・・。
(その前にガチで携挙があることを願いますが…)


もしも聖書の意味がわからない時は、必ず神様にお祈りした上で
エレン本だけではなく、他の教会の解説も読んでみると
相違が発見できると思います。
そして、思いがけない時に神様から答えがかえってきたりします。

ここで、みなさまに提案なのですが、違う教えを受けたら、
少しは抵抗したほうがよいのではないかということです。
議論で勝ち負けの問題ではなく、
聖書のみことばをもってその教えを上書き保存していくイメージです。

礼拝などで「エレンGホワイトはこう言いました」と言われたら
それは聖書のどこに書いてあるのかなと常に考えていく。
必ず聖書を開くようにする。不自然な解釈は受け入れない。
それで偽の教えに抵抗していきたいからです。
極論言うと聖書が正しいのだから
特にエレンGホワイトの言葉は必要ないです。
生きた聖霊をもったリアルタイムで話せる牧師さんの解説があればそれで充分。

ヨハネの黙示録のテアテラの教会へむけた言葉には、
そのままセブンスデーアドベチストにも当てはまるような気がしています。

サタンの「深み」を知らない人たちに向け書かれた
そのまま自分が持っているものを固く保っていろというメッセージ。

セブンスデーアドベンチストの中で、そこまで入り込んでなく
これは異端な教えだと密かに誰にも言えず、
この教えに思い悩んでいる人に励ましを与える聖句だと思います。

「テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。 わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。
また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。 また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。 また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。
わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。 ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。
勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。 彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。 わたしはまた、彼に明けの明星を与える。 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。」

ヨハネの黙示録‬ ‭2‬:‭18‬-‭2

テアテラとは「継続した犠牲」という意味である。
①これは、「暗黒時代の教会」の型である。
②キリストの十字架の意味を誤解し、継続して犠牲を捧げている。
(2)西方ではローマ・カトリック教会が、東方でギリシア正教会が支配した。


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