見出し画像

セクシー田中さん

今回、日本テレビのドラマ「セクシー田中さん」をめぐるトラブルにより原作者が自死を選んでしまったという出来事は、日本中を悲しませた。
今回の件は、全く関係ないような人も注目している問題だ。

私もドラマを見てなくて、ニュースを見ただけなのに
とても苦しい気持ちになっている。

というのも、私はエンタメ業界にも身を置いたことがあり、
詳しくはここで書きませんが、日テレの内情もなんとなく、ああ。と察しがつくところがあるので・・・

制作側の事情としては、予算内・スケジュール内にドラマや映画として成立させるには、どうしても脚本の加筆・修正作業が必要だ。撮影現場で変わることもある。
でも、その内容が原作者の世界観とずれていたのなら原作レイプとなってしまう。原作があるなら、世界観を壊さぬようバランスが問われる繊細な作業だ。
だけど、想像するに、過密スケジュールの中で、自分たちの台本を成立させることに精一杯で原作者の訴えを聞く余裕がなかったのではと思われる。
本当のところはわからないけれども、私が知る撮影現場はそんな感じだったから。

全員、良いものを作ろうとして頑張っていた中で起きた、悲しい出来事。
でも、人のものを借りてる以上はその人の声を聞かなければ
それは「むさぼり」となってしまう。

聖書には隣人のものをむさぼってはいけないという戒めがある。

あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、
ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

出エジプト記 20:17

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。

ローマ人への手紙 13:9

自分のものだと思ってるものが、人に汚されると嫌なものだ。
しかも「何度も言ってるのに聞いてくれない」という感情は苦しいし、
あるあるな感情だからこそ、感情移入しやすく注目されてるのではないかな。
だからと言ってSNSで今回の加害者だと思う人を責めるのはお門違いだけど。

自分で自分を殺す行為

死にたいほど、嫌な時は誰にだってある。
この世から消えてしまった方が楽なのではないか。
もう、何も感じたり考えたりしたくない。
そんな気持ちが身体全体を取り巻いていて、
今すぐにでも身体から脱出したくなる。

私も何度も「死」に誘われたことがある。
「お前なんて価値ないよ。死んでしまえ」と自分が自分へささやくのだ。
でも、実行しなかったのは自殺は周りがとても悲しむからだ。

この自分にささやいてくる「死ね」の声は実は自分ではない。
ささやいてるのは悪魔だ。
悪魔はその人がイエスキリストを受け入れる前に殺すという目的を持っているからだ。だけど、神様のタイミング外で自ら死ぬことは十戒の「殺人」罪にあたる。

私も聖書を読む前は、死んだら楽になれると考えていたけど、
ラザロの記述↓を読むとそうでもないらしい。
諸説あるが、この話からわかるのは、
肉体から離脱できたとしてもイエスキリストを主と認めたかどうかで、
最後の審判の時までの待機場所が違うのだ。
陰府か、それともパラダイスか。

ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。 この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

ルカによる福音書19〜


このことから選択肢はひとつしかない。
「生きてイエスキリストに委ねること」

私のこと

そんなことを書いていながら、
実は、昨日私はまさに「死にたい」と叫びました。
聖書を知ってるのに死にたくなる困ったやつです。
なんだか今週1週間、神様の守りが全くないと感じるような細かい不運の連続で
嫌気がMAXになってしまったからです。
それで、廊下にうつ伏せで倒れ込んで泣いてたら(完全に奇行w)
飼い主の異変に気がついた猫が天を向いて大声で「あお〜ん、あお〜ん!」と叫んで一緒に泣いてくれました。そんなこと今までしてくれたことないです。

猫が天を見上げて叫んでたから、
それで、我にかえり、家族も一緒に神様にお祈りすることができました。
お祈りをして一晩寝たらこの不運続きの原因もなんとなくわかりました。
私は、ある人を悪く言っていたので、それに対する懲らしめだったのかもしれないと感じました。それも聖書アプリ聞いてたらドンピシャの言葉が出てきたからわかりました。だから悔い改めようと思います。
こんなふうに、良い事書いてる風だけど、実際の生活では何もできてないのです。

だけど、お祈りをすることで、なんだか答えが与えられるということは
ここで強調してお伝えしたい。
身の回りの変化を研ぎ澄ましていると、「おや?」と思える瞬間があるんです。
苦しいことは避けられない人間生活ですが、うざったい悪魔をしりぞげてくれる
神様にお祈りができる特権があることは本当にありがたいことだなと思いました。
今、苦しんでいる人が癒されますように・・。










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?