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きみが消えてしまわぬよう

「スネグーラチカ」という少女の話を知っているだろうか。
ロシアに古くから伝わる民話に出てくる少女は、雪で作られ命を宿した、それはそれは愛らしく美しい娘だったという。


春一番は確か1ヶ月も前に発表された気がするのだけれど、今日の風はそれに相当する荒れようだった。
昨日は無風だったのに、今朝の寝起きから、風が乱暴に外壁に当たる音がしていて。
「まる、びっくりしてないかな」という思いで眠い体をどうにか起こした。
リビングの扉を開けるとすでに猫はおすわりして起きていて、でもよく見ると目がまだ眠たそうで、
「おはようかあちゃん、今日もぼくのがはやかったよ」
みたいにむにゃむにゃ言ってくるので、風にびびらず爆睡してたなと少しほっとする。
「おはようまる、わたしはまだ眠いよ。まるはすごいね」
手をひらひらゆっくり振りながらそう返すと、猫は満足げに耳をぴんとたてて背伸びのポーズを取りはじめる。わたしはまだ朝晩手放せないスリッパをすりながらキッチンへ向かった。

なおさんが温かいシャワーを浴びて目を覚ましているうちに、彼のお弁当をつくる。
パパパっとできるやつで、フライパンは卵焼き器だけを使って、おかずを切り分けるときにコンパクトなナイフを使うだけ。余りはわたし用に茶碗によそったご飯の上に乗せて、それは後で食べるのがよくある流れ。
あらかたお弁当の支度ができたら、まるの朝ご飯とサークルのお掃除に取りかかる。

「わぁ~、今日もすごいねぇ」
換毛期真っ盛りの毛の量のことである。短毛だけれど超多毛種のブリティッシュショートヘアなので、特にハンモックのコロコロクリーナーは毎日欠かさない。
「なんかすごいいっぱい出てくるんやけど、なんでなんやろ?」
「あなたがもふもふ過ぎるからやで」
「もうあんま寒くないから、こんなにもふもふいらんのに」
「もうすぐあったかくなるから、その準備のためにたくさん抜けるんや」
クリーナーにじゃれるのがだいすきな猫はわたしの話半分に、毛が刈られていくハンモックを爛々とした目で見ていた。

準備を終えて、時間ギリギリまで猫とじゃれてくれたなおさんが家を出る。見送りにはわたしだけが行く。
本当はいっしょに「行ってらっしゃい」を言いたいけれど、抱っこが苦手な猫種である。ジタバタして万が一わたしの手から外へ飛び出してしまったら、という怖さが勝つのだ。
昨日とは違う、しっかり暖かいTHENORTHFACEのダウンを着たなおさんにランチバッグを手渡して玄関を開けた。この一瞬だけで風が荒れているのがよくわかった。

まるがサークルの中でお利口にご飯を食べている。
「まるー、父ちゃん大丈夫かな?風すごかったで」
「母ちゃんがさっき言っとった、あったかくなる風?」
「どうやろね、それはわからんけど今日のは乱暴だよ」
なんやねん?みたいに首をかしげる猫が可愛くて、せっかくだから換気をしようと思った。
花粉やいろんなものを運ぶ風なので長い時間かけられないけれど、少しだけ風の通り道を作ってあげよう。寝室の小窓を半分開けると目の覚めるようなすっとした冷風が入り込んできて、鼻がしみた。
それからキッチン横の縦長の窓を開ける。小さな通り道を、風が踊るように吹いて抜けていくので、猫も面白そうにしていた。
「母ちゃん、外たのしそうやね!」
はずむような声でにゃんと鳴く息子に、わたしはなんと声をかけたら良いのかわからなくなった。

前にも同じようなことがあった。今よりずっと寒かったその日は、1日雪が降っていたと思う。
ひと回りくらい体が小さかった頃の猫は、はじめて見る雪にわくわくが止まらない様子だった。リビングの窓ガラスにはりついて、
「すごいよ父ちゃん!このちっちゃいの、落ちるときに無くなるんや!」
とかなんとか言いながら、ブリティッシュショートヘアらしく尻尾をふりふりしてなおさんに話しかけていた。
ふんわりした綿雪は、ガラス越しにベランダに落ちては消えてを繰り返した。
「食べてもいい?」
「あかんで」
「つかまえてもいい?」
「うーん、それもあかんよ」
なおさんは、猫に優しく、また困ったように返す。
猫はよくわからなさそうだった。

消えてしまうのが怖い。
ひとつの過ちや油断で、きみがこの場所から消えてしまうのが、とてもとても怖かった。
……スネグーラチカを思い出した。
雪の精と春の精は夫婦だった。孫娘として命をもらった少女は、真白の肌とビー玉のような瞳、氷のように艷やかに輝く髪を持つ、雪で作られた綺麗な子だったそう。
日本には「雪娘」としてお伽話に出てくる少女だ。
心を持った娘には、人間の友達もできた。
本当は外に出ては行けなかった。もう春を迎える季節だった暖かな世界は、彼女には耐えがたいものだったからだ。
けれど、好奇心ゆえに外の世界に出てしまった少女。
雪で作られた体は太陽に照らされ、あるいは友達に誘われるまま焚火の上を跳び超える遊びにのってしまい、瞬く間に溶け消えて最後をむかえる。

悲しい幕引きの話が苦手だった子供の頃、それでも特に印象に残っていたお伽話だった。
ああきっとわたしは今、スネグーラチカを育てた祖父母の気持ちなのだろうと思った。
雪の精と春の精。ふたりが愛する少女がある日いなくなってしまって、ついには帰ってこなかった。どんなに悲しんだことだろう。

世界には、色んな猫の守り方がある。
柵のない広い庭を遊び場にさせている町だってあるし、観光客や地元の人によく懐く島猫たちもいる。
まるがうまれたのが、そういう環境だったらよかった、とは思う。けれど。
この子を保護した、わたしたちは里親だった。
一度は人間の無慈悲で手放されたこの子を引き取ることになったとき決めたのだ。
……スネグーラチカ、あなたは最後に何を思ったんだろうか。誰を想ったんだろうか。

「あれ、もう終わり?」
まるは金色の目を丸くしながら、キッチンの小窓を閉じるわたしを見る。
「そやで。花粉とかもたくさんおるやろうしね。父ちゃんの鼻がくしゅくしゅになっちゃう」
「そっかー、それはあかんなぁ。父ちゃんぼくと同じでよくくしゃみするもんな」
残念そうにするけれど、切り替え早いのはさすが猫と言ったところだろうか。思い出したように再びご飯を食べだす息子に、わたしは笑みのこもった息をついて次のことをやりに行く。

息子は外の世界にはよく興味を示していて、ストレスにならないよう、たまに寝室の窓を開けて外を見せてあげている。ガタついて取れかかっていないか、隙間はないかなど網戸に細心の注意を払いながら、猫が窓際に座って外を眺めるときは必ずそばに自分もいる。
それはわたしの責任なのだ。
春とともに消えてしまった少女と同じようにはさせない。

猫を飼うにあたっての環境は色んな意見が飛び交っていて、ときには息苦しくなるけれど。
わたしたちにとっては、ここにこの子の命が在るということがすべてなのだと、その一心で。

洗濯機のスイッチを押してからリビングに戻ると、おなかいっぱいで早くもおねむになっている猫の眉間を撫でる。気持ちよさそうに「ナァ」と鳴いて、朝の陽気に誘われていく猫を見守りながら、わたしはやっと自分の朝ご飯をテーブルに持っていった。

『きみが消えてしまわぬよう』

春が来ても、その先も、きみとの約束を守り続けていきたいのです。

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#お伽話 #保護猫

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