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言葉というバイアス

私は、最近ずっと言葉というコミュニケーションツールの危険性について考えています。

言葉は「複雑なものを単純化して効率的に解釈し、伝える」ための道具です。

私たちは五感を使って受け取った複雑なものをそのまま他者に伝えることができません。

言葉に情報を「圧縮」して伝えるしかないのです。(写真や動画でも、その時感じた空気感までは伝えられません。)

その言葉というツールが、人を分断して他者を理解しようとする努力を阻む元凶になっているなと最近ひしひしと感じます。

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差別は、言葉によって助長されている

人間は、ダイバーシティを簡単に受け入れられない生き物です。

自分とは違う言語を使う人、目の色が違う人、肌の色が違う人をまず自分と強烈に区別しようとします。

「外人」とか「黒人」「同性愛者」みたいな名称をつけることによって、「この人たちと自分は違う」ことをはっきりさせて、安心する。

このような言葉がいったん作られると、人を区別(さらには差別)するシステムそのものが保存されるので、元々区別・差別しようというマインドを持っていない人にも、言葉と共に分断システムが継承されるのです。

その言葉さえなければ、両者は繋がりのある・グラデーション上のものとして解釈できるはずなのに、言葉によって絶望的な高さの壁で両者が仕切られてしまう

複雑性を複雑性のまま受容できず、「自分と同じか、違うか」で区別しないと他者を受容できないことによって生じる悲劇が沢山あるのです。

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複雑なまま受容するということ


近年ダイバーシティが騒がれるようになってきて、LGBTなどの言葉も広く知られるようになってきましたが、

真のダイバーシティとは、LGBTという言葉が消滅することなのではないかと思います。

彼らを自分と区別するのではなく、自分の延長線上につながっている他者としてそのまま受け入れること。

「差別しない」という意識を持っていても、固有の名前を付けている時点で「自分とは違う」と区別しているわけだから、それは完全なダイバーシティとは言えないのです。

複雑なものをそのまま受け入れること、これがすごく難しい。

人間の思考はあまりにも言葉によって規定されていて、その枠組みの中に知らず知らずのうちにはまっている。


コミュニケーションツールと思考について描いた作品に、『メッセージ』(原題:Arrival)という映画があります。(原作は『あなたの人生の物語』という短編小説)

非常にざっくりいうと、コミュニケーションツールとして用いるもの(人間の場合は言語)によって、思考・価値体系が変わるという話です。

言葉を使うときにも、新しくつくるときにも、それが自分や他者の感性を制限していないか深く考えなければ。

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