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「カミングアウト」の功罪

最近、Queer EyeというNetflixの番組にハマっています。

ファブ5というゲイの5人(それぞれが料理・ファッション・インテリアなどのプロ)がサエない男性を大変身させる!という番組。

シーズン1ではとにかくファブ5が面白くて大胆で、依頼人を大変身させる勢いと爽快感が大好きだったのですが、

シーズン2では、その多くがゲイを排除する

教会コミュニティや、トランスジェンダーの依頼人が出てきたりして、
いつも明るいファブ5の面々も、マイノリティとして苦悩があったのだな、ということに気づかされる内容でした。

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S2E1には教会に戻る勇気が中々持てないゲイの男性が、S2E5にはトランスジェンダーの男性が出てきます。
彼らは二人ともマイノリティであることをカミングアウトして友人や親に拒絶されたという過去を持っています。

なぜゲイやトランスジェンダーというだけで家を追い出されてここまで拒絶されなくてはいけないのか、かなり衝撃でした。

最近、「カミングアウト」を賞賛するニュースも多くなっていますが、それを賞賛することにも功罪があるのではと思います。

性別や恋愛対象という、自分ではどうにもならない生来の条件を大っぴらにすることが、「普通と違う」という理由で「カミングアウト」として大げさに騒ぎ立てられ、拒絶されたり賞賛されたりする。

私は、いわゆる「ストレート」ですが、自分が女であるということにも、男性が好きであることにも、何のストレスも感じてこなかったし、
いい意味で、そういった生来の条件に対してあまりアイデンティティを持っていません。

でも、マイノリティといわれる人たちは多くの場合マイノリティである事実を重く受け止められ、苦悩せざるを得ない。

こういう番組を見ていたりカミングアウトのニュースを賞賛していても、自分に近しい友人や家族が、「カミングアウト」したら一瞬でも拒絶してしまう人もいるかもしれません。

大げさに取りざたさず、すんなり、「あぁ、そうなんだ」と受け入れられる社会になればいいのに。

皆が多様性を受け入れることって本当に難しい。


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