蝶を吐く 〜ライラックぽん〜
姫すみれ夜明けにふうと蝶吐けり
めかぶ
すみれ色の夜明けにすみれが、すみれ色の蝶をふうっと吐く。いえ、もしかしたら白い蝶を。生まれた蝶はとてもとても小さい。だって姫すみれがとても小さいのですから。目に入らないほど。蚊よりも小さくて、風がなくても空気に流されてしまい、上へと昇っていくことさえできないのです。でも空へとの登って行きたいのです、その蝶は。
そんな蝶をあなたは見たことがありますか?わたしはどうしても見てみたくなって、朝早く、まだ薄暗い外へと出て行きました。昼間のうちに、姫すみれの咲く場所を探しておいたのです。
そこは閉鎖された古い石造りの歯科医院の裏庭です。建物をぐるりと囲った木の塀が裏側でちょっと途切れているのを私は知っています。いつもそこから、そおっと内側を覗いているのです。その敷地の隅に姫すみれが一群れ咲いているのです。
辺りに誰もいないのを、分かっていても少し確認してから私は道端にそっとしゃがみこみ、塀の中を覗きます。あたりが少しずつすみれ色の夜明けを迎えます。私もすみれ色に浸ってすみれ色になってしまえばいいのに。そんなことを思いながら体をしんしんと冷やしながら菫から蝶が生まれるのを待っていました。
そしてついに、姫すみれから、かすかな白い霧のかたまりのようなものがふっ、ふっ、と吐かれるのをみました。吐き出されたものは塀の隅からみる私には蝶とは定かに確認できないほどでした。目を凝らしているうちに、それらは朝の光に溶けて見えなくなってしまいました。
私は蝶を確認できなかったことにがっかりしました。どんな種類の蝶なのか気になっていたのです。
(そうだ)
私はついに塀の隙間から敷地の中へと入り込み、素手と爪を泥だらけにして、一株の花と蕾の付いた姫すみれを掘り出し、それを両手のひらにそっと握るようにして走って家に帰り、すぐにその姫すみれを小さな器に植え、自室の机の上に置きました。これで明日の朝は部屋の中で蝶が観察できるはずです。私は次の日の朝を待ちました。
翌日私はまた薄暗いうちに起き出して部屋の明かりも付けずに、カーテンと窓を少し開け、窓辺にすみれの鉢を置き、少し離れた場所で毛布にくるまってじっと蝶が生まれるのを待ちました。その朝はとても冷え込んでいたからです。素足のままの私の足先はどんどん冷えていきましたがもう靴下を履いたりしていたら蝶を見れなくなってしまうと思い、私はじっとしていました。自分の吐く息が少し白いような気さえしました。春なのに。
やがて外がすみれ色に染まり、窓の隙間からそのすみれ色の空気がすうっと部屋に入ってくると、姫すみれはそっと蝶を吐きました。でもそれはやはり蝶とは分からないほどの小ささで、もしかしたら昔絵本でみた妖精そのもののようにも見えました。それはちらりと私をみてふわふわ浮遊してから、空気に流されて窓の隙間から外へと流れ出ていってしまいました。浮遊しているあいだに私をみて莫迦にするようにこんなことを言ったような気がしました。
(夜明けに一人でいて寂しいわね。本当に蝶を吐くのが菫だと思っているの?そんなわけないでしょうそれは菫みたいな幸せな若い女の子よ)
そんなこと生まれたての蝶は言わないでしょう。やはり妖精だったのかもしれません。妖精にしたってそんなこというなんて。いえ、誰もそんなこというわけがないのです、自分の心の声だったのでしょう。誰かと一緒にすみれから蝶が生まれるところを見たかったと思ったから。自分がもう若くないと思っているから。だからそんな空耳が聞こえたのでしょう。
すっかり悲しくなった私は靴下を履くとまたベッドに戻り、身体が暖かくなるまで寝ていよう、と思いました。そしてそのまま光があふれる本当の朝になるまで眠ってしまいました。
そして次の朝にはもう蝶をみたいとは思いませんでした。部屋の菫も元の場所へ、根付くか分からないけれど返してきました。返しているときに手の上にとまった小さなものはもしかしたらあの蝶だったかもしれませんが、私はまだとても悲しかったのでよくよく見ることもせずに、それが手から離れて舞っていってしまうまで目を背けていました。 了
*ライラック杯投句の、めかぶさんの俳句からこの短い文章を書いてみました。私より若くて素敵なめかぶさんにこの記事を捧げます✨
蝶を吐くように俳句を作って行きましょうね♫
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