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noteという場所

1,2年前まで当たり前だったことがすごい過去のものに感じる。攻略したり、成功したり、集客することを誰もが望む世界ではなくなっていくから、それやっても充実感なく、そんな文章を読んでも何も入ってこない。それはずっと感じていた。

でも、正直、こうやってnoteやっててもフォロー数とかスキの数が増えないことについて考えている自分がいて、、、
私は書きたいから書いているのに。書くことは人を集めるための行動ではなくて、私の「表現」なのだ。うまい下手も関係ない。人気なんて関係ない。私に与えられた表現の手段が、書くこと。とにかく書きたい!だから書く。

世の役に立たないと意味ないじゃない?と自分の頭の中の声が言うこともある。でも、そう言ってしまうと、すべての表現は意味がなくなる。絵を描くこと、歌うこと、語ること、、、見てくれる人、聞いてくれる人、喜んでくれる人がいれば、もちろん喜びになるけど、「そのためにする」のは、私にとってはブレる。

オットといつも話すのだけど、オットは「社会のために」「やりたいことをやる」人(やぎ座)。
私は、「自分自身がやりたいからやって」「それが社会のためになったらいい」ならないかもしれないけど、それでもいい。自分が機嫌よく幸せでいることが一番大事な基本的な社会貢献だから。

私が私自身とつながって、あふれてくるものを世の中に表現することが一番大事で、純粋な表現と言うのはそれでしかない。

誰か、という第三者を意識したら、途切れる。。。

ならば、noteになんて書かずに、自分の紙のノートにペンで書いてたらいいんじゃないか、という声がまた聞こえるけど。表現って第三者がいないと成り立たないというのもそうで、、、

今、表現についてイメージしたのですが、
その人が大好きなこと、寝食を忘れてできることを、誰のためでもなく、お金にも評価にもならないとしてもやりたいことをやることが、私にとっての表現。

それを見ているのは、自分の中の自分自身=大きな意味では宇宙とか神様だけかもしれない。でも、それを自分が喜びに満ちてやっていれば、宇宙や神様は喜ぶし、世の中によい波動を生み出す。人一人が喜んじゃってるんだから、悪いわけない。
やりたいのにやらないでいるとか、何かのためになるような形でやらなきゃいけないって自分を縛ってエネルギーをそっちに取られながらやってるより、純粋で100%のエネルギーだから。

何言ってんだ?って感じですが、このnoteという媒体は、そんなヘンコも受け入れてくれる。ありがたいです。

私は、何かを人に教えたいとか、与えたいとか、ありました。。。
私のnoteの記事のそこかしこに、そんなものもあります。
でも、私は自分の思考の移り変わりや気づきの覚書のように、スケッチブックに子どもがどんどん絵を描いていくように、noteに言葉を連ねていきたい。

最低、自分が読んで自分が喜んでいれば、それで充実。自分との対話にとって大事なこと。
自分以外の人が、なるほどねと思ったり、へえ~って思ってスキしてくれると、大変な喜び。その人がたった一人であっても。
コミュニケーション下手な私ですが、そこはこだわりなんです。ヘンコです😆嫌われてもいいです。自然体でお付き合いさせてください。

前もそんなこと書いたな。言い訳っぽい(笑)
多分、私自身、フォロワーとかの数字が目に入るとブレそうになり、軌道修正しつつ、やりたいことをやれる自分へとシフトしていっている最中なのでしょう。

時代の風はもっと先へ。誰が何と言おうと何にも言わなかろうと、好きなもんは好き~っていうのが風に乗る方法かもと思っています。

日々は仕事に忙殺されている中、noteで表現することを毎日楽しみに帰宅し、上着も脱がずにPCの前に座ってnoteを開く日々です。

小さな子が、幼稚園から帰ったら、大好きなおもちゃやぬいぐるみに突進していっていきなりその世界に入る、、、お母さんの「手を洗いなさい!服を脱ぎなさい」なんて声も耳に入らない、そんな感じですね😊

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