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これからの時代の「働く」ということ

服飾専門に行っている娘の就活についての考え方を
先日書きましたが、
昨夜もまたぶつぶつ言っておりました。

先生たちから言われることが
「あなたたちは”選ばれる側”なんだから、たくさんの企業から声がかかるようにしなくちゃならない」

娘は、「選ぶ側」だと思っている。

なので、先生から
「もっとたくさんの企業にエントリーしないと就職できないよ。」と言われて、

「私が行きたいところがあれば、ちゃんとエントリーします」と言ったと。

そういう言動を繰り返しているから、先生たちは娘の言葉に首をかしげるそうだ。

娘にしたら、どこか条件のいいところに引っかかればいいな、ではない。
私は何をする人になるのか、何をして生きていきたいのか、ということなので、条件だけではないし、どこか、ではなく、自分で選ぶ、という姿勢なのだ。

シュタイナー学校の高等部では、卒業プロジェクトという、大学でいう卒論のようなものを経験している。1年以上かけて、チューターの先生が付いて、ひとりひとり何か一つを徹底的に掘り下げて、卒業間近な頃にそれを教師や保護者、在校生が見守る中でプレゼンをする。
(ひとり20分ほどの持ち時間の中で、周到に準備をしていても、何も知らない保護者から急な質問が飛んだりするから、すごいプレッシャーらしい)

チューターの先生方が本当に真剣に向き合ってくださるので、テーマを決めるところからすったもんだ。軽い考えで決めていたら、かなり厳しく突っ込まれる。その中で子どもたちは深く考えざるを得ない。「私は何が好きなのか、なぜそれが好きなのか。」それも、ただ好きな理由ではなく、自分の内面を掘り下げて、そのどの部分に触れることだから好きなんだ、ということまで考える。

家でも、3人ともその時期は、「あ~~~ん、わからん!」「う~~~~ん、う~~~~ん」と唸っていたなと懐かしく思う。

その発表を、子供3人のクラスの子たちの数だけ聞いたが、18歳でここまで考えるってすごいなって思ったものだ。
私の18歳なんて、何にも考えていなかった。
でも、引き出してあげる人がいて、その環境があったら、どの子もここまで深く考えるようになるんだ、と思った。
もちろん、答えが最後まで出ないこともたくさんあって、問いのままになっている子もいた。でも、考えたから見つけたかけらもたくさんあった。

自分の人生に、何を持って生きていきたいのか、それはなぜか、という問いを持つだけでも素晴らしいことだと思う。


一方、私は普通の昭和の教育を受けて来た、今の時代の大多数の大人たちの側。専門学校の先生たちのことも理解はできる。
でも、これから人生100年と言われている世の中に入っていくのに、
私たちでもあとまだ人生が半分あるかもしれない。

条件で、雇ってもらえる場所を探していると、いつか必ず雇ってもらえなくなる日がくる。もう50代半ばも、まだまだ現状では社会が門戸を開いているのは、飲食、清掃、警備、とか限られている。そんな仕事が向いていない人にとっては段々、選べなくなる。楽しいと思える仕事をするのは難しいし、体力的にも精神的にも辛くなるかもしれない。

今後、社会が、60代70代を「年寄り」扱いしていては成り立たない、と考えを変えていく必要がある、と、「LIFE SHIFT2」にも書いていたけど、そんな時代が追い付いてくるのと私が老いるのはどっちが早いのか?

だからこそ、60でリタイアしてそれから何を始めようって考えていては遅いのではないかと思うのです。若いころと同じように働けなくても、一生働いていけるように、どんなことなら苦にならず楽しく働けるのか、仕事が遊びのように感じられることってなんだろう?と考えていく必要があるのではないかと。自分で仕事を作り出すこともできる、と、そういう風に考えないと、私は今ある仕事の中にやりたいことはない気がするし、、、。

若い人たちも同じで、いろんな企業で色々経験することもいいことではあるけど、長い長い人生で、自分の大切な時間=命を使って、どんな人生を送りたいのか、それは「選ばれる側」という受動的な気持ちではなく、「私が私の人生を選ぶ」という気持ちで、ひとつひとつ、重ねて行けるようにと願います。

失敗も、それは豊かな経験となるし、いますぐそうなれなくても、失敗して、成功して、トライ&エラーを繰り返して、その都度、自分はどうなりたいのか、だけを見つめて生きることが大事と、新庄剛志さんも同じようなことを言ってました。私もそう思います。

働く、ということの捉え方を、考えてみることは、これからの時代を楽しく生きるために大切なことだとしみじみと感じています。

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