読書感想文 送り火
送り火 著 重松清
富士見沿線で暮らす、暮らしていた、人たちのお話。たまに奇妙でほんのり温かい、現実的な話が詰まった短編集。
短編集と思わずに手に取って、気付いた時に読むの後回しにしようかと思ったけど一つずつの話が濃く、複雑で一冊の小説を読んだくらいのたのしい時間になった。
フジミ荘奇譚と漂流記、ハードラック・ウーマンは、登場する五人の老婆と徘徊する無人のベビーカー、富士見地蔵が奇妙さを強く出している。結局老婆たちは生きているのか亡くなっているのか、いつ亡くなったのか、主人公はどうなったのか、真相は分からなくても、「猫はいいよお」がすごく残っている。奇妙だけど、ちゃんと優しい。
漂流記はママ友界隈の話。団地のいくつかある公園にそれぞれ集まる人たちが、グループと言ったら機能的に足りなくてサークルと言ったらそんなに楽しそうなものじゃなくて、組合と言うと機能的に過分で、何と表したらいいか分からないけど、学生が学校で感じる群れに近いものに感じた。どこの群れにも馴染めずに最後は誰とも関わらない場所に行くのだけど、主人公の夫がママ友付き合いが負担なら引っ越すのもアリだと提案していることに救われる。簡単だと決めつけて無関心で居られたり、協力するよなんて言って休日にだけ勝手に交友関係を広げたりする人だったら、心が痛んだだろう。
かげぜん、よーそろ、シド・ヴィシャスから遠く離れて、家路は読み終えたあと新しい朝を迎えた気持ちに近いものを感じる。なにかに励まされるように前向きに控えめな一歩を踏み出すような。
送り火、もういくつ寝るとは、ひとつ前の家族の晩年の話。ひとつ前の家族の晩年って言葉は間違いだし存在しないのだけど、自分の親が作ったかつて自分も属していた家族が終わっていく頃、みたいなこととして言いたい。
送り火は、早くに亡くなった父親の分苦労した母親のために同居をしたい娘が廃遊園地の近くの実家を出るように母親を説得しに来る。廃遊園地のはずなのに夜になると営業していたころの賑やかさを感じる。多少無理して買った実家のせいで父親は働きづめになって早死にした、と娘は父親を責めていたけど、娘と自分が幸せそうでいることが父親の幸せであったし、むかしの人はそういう人が多かった、自分も父親と娘の笑った顔を見るのが好きだったし、と母親は言う。娘の夫は無理をせず一緒に楽しみたい、同じ幸せを感じたい人だ、父が生きていたら夫のことをどう思うだろうと娘は思う。
どちらかが正しくてどちらかが間違っているわけではないけど、まったく異なることと思っていたことがそう遠くない違いに思えた。
もういくつ寝るとは、お墓の話。隣の区画を買った夫婦が病気の娘のために買ったというところで、家選びとおなじように探して選んだと言っていて温かかった。富士山が見えるところで暮らしていた思い出が強い両親に富士山が見えるお墓を選んだ娘、娘の夫も義両親もよろこばない選択でひとつ前の家族仲、夫婦仲の濃さと夫と義両親との一方的に冷え切った関係が強く感じられた。同じ墓に入りたくないから、は離婚理由になるだろうかというところで友達の話を思い出した。
生活する上での条件は合致するけど同じ墓に入りたいとは思えない、と別れた彼氏の話をしていた。同じ墓に入りたくなくても、結果入らなくても、離婚しなくてもできるわけだけどそれが遺される側に何か考え込ませる事柄になるのは忍びないのだろうし、墓は別にできても夫婦関係を死ぬまで続けていくかどうかの話であって、同じ墓に入りたくないは離婚や破局の原因であって、きっかけではない。原因なら解決策を考えられるけどきっかけは良い方にも悪い方にも勝手に換わっていく。この本を読んでみて、複雑で温かい、人によっては重いと思われる作品だけど、登場人物の性格や価値観に筋が通っていて本当に生きてきた人の話のように感じられる現実味が浮世離れしている自分にはおいしく感じられる。
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