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若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』河出文庫

年明けに暇を持て余していたとき、アマゾンプライムで映画を見た。評判は聞いていたが、たぶん東北に住む老年の女性の日々を現実的に描いたものなのだろうと、なんとなく想像していた。ところが見てみるとかなりシュールなのである。一人暮らしの老女の暮らしなので痛切な孤独も描かれるが、妙におかしくもある。彼女の頭の中の「寂しさ」が現実の人間(3人の男)になってお茶の間ですまして座っているのだ…。これは原作をぜひ読みたいと思い、取り寄せて一気に読んでしまった。

いまから100年ちょっと前に登場したモダニズム文学で「意識の流れ」という技法が生まれた。当時は斬新だったがいまではまったく見慣れた手法になってしまった。でもこの小説はちょろちょろした流れではなく「意識の爆流」になっている。ほとんど洪水。東京で長く暮らす主人公の桃子さんが頭の中でどんどん故郷の東北弁でしゃべるようになり、それだけでなく自分の分身と思えるたくさんの人間が全部東北弁でしゃべってるんだべ。そのリズム感がすごいんだわ。スウィングしてる。ジャズなんだわさ。おら、ほんどにおったまげた。

桃子さんは無理やり結婚させられそうになった東北の実家を飛び出し、東京で惚れた男と結婚し、二人の子どもにも恵まれて、幸せな人生を送っていた。しかし夫は突然死んでしまう。そのあたりの自分の分析が面白い。心から愛していたと思う声がある一方で、いや実はこれから自由にひとりの人生を生きられると、ほんの少しの喜びも感じていた。いや、しかし、そう考えようとするのは、夫の死から立ち直るために編み出した方法であったのかもしれない。

ところで75歳の現在はその自由を手に入れたというのに、毎日寂しく単調な毎日を暮らしているのだ。その頭の中にいろんな過去の自分や現在の分身たちが登場してしゃべりまくる。東北弁で。

この小説、たぶん読む人の経験の分量によって、端的にいえば年齢によって、感じるものが違うだろう。桃子さんは近くに住む娘がいるが、あまり仲がいいとは言えない。珍しく訪ねてきた娘を見て、「自分が年を取ることについてはもう諦めたが、娘が老いるのは辛い」と思う。そういえば、わたしが40歳になったとき、母は手紙に「娘が40になる日が来るとは…」と書いていたっけ。そのときの母の気持ちはこんなだったのだろう。ほかにも個人的に「わかる!」と叫びたいような気持になる記述がてんこ盛りだった。この小説と映画、今年のベストになりそうだべ。

小説を読み終わって、もう一度映画を見てしまった。おかしいのだけれど、辛い。老いの途上にある自分もこれからがんばらねばね。






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