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村田喜代子『光線』文藝春秋

読み始めて「あれ?」と驚いた。文体や内容が予想していたものと違っていたから。いつもの村田喜代子ののびのびした、ちょっとファンタジーの風合いもある、あの調子とは違っている。い、いつのまに作風が変わったんだ?

と言ってもわたしは村田喜代子を時代順に読んでいるわけではないし、最近はこういう作風になったのだろうか、といぶかりながら読み進んだ。中篇8篇の連作だが、中ほどの「関門」あたりからだんだん村田風の味わいがにじみ出てくるので安心した。

あとがきによればこれは『文學界』に連載したもので「土地の力」「地の霊力」を書くという編集者からの提案だったが、実際に書こうとするとむしろ弱い、頼りない土地のことを書いてしまったとのこと。初めに「関門」それから「夕暮れの菜の花の真ん中」(この二つは村田っぽい)。ところがそこで東北の震災と原発事故が起き、その直後に著者の癌が見つかった。そこで文体が変わったのは当然のことだったのだろう。この本の冒頭の「光線」は癌治療の話だが村田とは思えないリアリズムの文体だ。

原発事故と癌発見がほぼ同時にあった。そのため治療の放射線、原発の放射能、地震などがからみあって連作になっていく。それ以前に書かれた北朝鮮からの脅威と海、一面の菜の花畑と夜の闇の孤独、最後の洞窟の闇の恐怖と組み合わさって、人間と土地という大きいテーマになっており、全体を読んだ感想としてはやはりこの作家の作品なんだと実感した。

わたしが初めて読んだ村田作品は『蕨野行』で、それは深沢七郎の『楢山節考』への批評的な反応のような棄老伝説の話だった。今回はそのテーマに近い「山の人生」が印象的だった。ある山奥の廃屋の夜に、土地の人から聞いた話。その集落ではむかし、年を取った男はある年齢が来ると山に棄てられたらしい。(女は雑用ができるから棄てられない。)だが、別の説として老人たちは山奥で生き残り、家を少しずつ建てる。元のふもとの村は何かの原因で人がいなくなり、結局山奥の老人たちが別の集落を形成したという。またある中国の集落の話では、老人たちは山奥に棄てられるが、麓の村が繁忙期になると呼び寄せられて一緒に働き、終わるとまた山奥に戻ったらしい。この話を読みながら、いまネット上で話題になっている、老人は集団で死ぬべきという言説を思い出していた。



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