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岸本佐知子、柴田元幸編訳『アホウドリの迷信:現代英語圏異色短篇コレクション』スイッチ・パブリシング

翻訳者の仕事は目の前の作品を訳すだけでなく、まずは作品を見つけることから始まり、「ほら、この作家はこんな風に面白いですよ」と読者をそこまで連れて行くところまでなのだ。大抵の翻訳はせいぜい訳者あとがきがあるだけで、あとは読者が独力で読んで考えるわけだけれど、この本では二人の翻訳家が日本では知られていないが自分たちが面白いと思う作品を見つけ(見つけ方も書いてある)、訳して、その上にところどころで二人が作品について感想を言い合う「競訳余話」まである。まったく知らない作家の、風変りな作品を紹介するには、これぐらい親切にした方がいいんだろう。個人的にはこの対談部分が一番面白かった。

とはいえ、作品のことも書いておくと、男の子が女装させられ、カッコいい女子アメフト選手に惹かれる「オール女子フットボールチーム」はジェンダーの意外な扱い方が面白かったし、自殺手前にいる女の子たちを描いた「最後の夜」は、ルシア・ベルリンと『ライ麦畑』と『スタンバイミー』がまざったような感じだった。そして「アホウドリの迷信」の最後でアホウドリが現れる場面は岸本さんも言っているとおり強烈だった。(アホウドリって英語だとアルバトロスで、その響きが運命的なものを感じさせるけど、日本語のアホウドリはイマイチだ。しかたないけど。)

あとは二人の対談のメモ。[ ]内はわたしの感想。

・二人とも空気を読まずに、好きなものだけを訳してきた。フェミニズムとか人権とかの関連の作品は入っていないが、そういう時代の流れに沿ったメジャーなものは他の翻訳家がやってくれるだろう。[メジャーなものをどんどん訳す某翻訳家の顔が浮かぶ…]今回の8人の作家が現在英語圏を代表する人たちというわけではなく、自分たちの趣味で選んだだけ。

・カーヴァ―以降、小説の語り手は教養もボキャブラリーも乏しい者が訴えるタイプが多くなっているが、クシュナーは作家の頭の良さを語り手が預かってもいいのだと思わせる。

・コロナ禍にいろいろな作家が書いた「デカメロン・プロジェクト」というのがある。

・1980~90年代の女性作家は傷つきやすさや感覚の繊細さが売りだったが、その後は幻想的な要素が強いものが増えてきた。

・男性作家は新しいことをやるとすぐに「ポストモダン」などの枠に入れられてしまう。女性作家は家庭的なことや感覚的なことを書くことを期待されて、実験的なことを書く人は少なかったが、最近は出てきている。だがイギリスではもともと実験に冷淡なのであまり大きな流れにはならない。

・現代は書き手が100%シリアスに捉えることがなんとなく禁じられていて、どこかで「なんちゃって」と自分を相対化していることを示さないといけない風潮があるが、少し前の時代は真剣勝負が当たり前だった。

・柴田はこれまで翻訳するとき男性作家を選ぶべきという刷り込みがあったが、いまは刷り込みから解放されて、むしろ女性作家をどんどん訳している。

・ものすごくいい場面がひとつあったらそれだけで訳したくなる。アホウドリの場面!(岸本、激賞)

・詩人でもあるサブリナ・オラ・マークの「ワイルドミルク」はどこに持って行っても出版を断られたが、ある出版社(フィクションの概念を変えるものだけ出すという理念の会社)が出してくれた。[この小説、かなり変わってます…]

・柴田、これからはインディーズが大事。

・岸本、「最後の夜」はサバイブしていることが美しい。AとBという道があり、Aを選んだが、Bを選んだかもしれない自分もどこかにいるという感覚がある。それが自分を支えている。[←わかる!]

・女3人のシスターフッド。社会の外にいるmisfitの3人。日本では「生きづらさ」という表現はあるが、それは社会の中にいる状態。社会の外にいる人間については書きづらい。

・女性と「泳ぎ」や「水」の親和性。「泳いでいれば世界を遠ざけておける」。

・暴力を被っている側の物語だから女性。おじさんが出てもダメ。おじさんは暴力を作り出している方だから。

・どうやって本を見つけるか。
柴田、ブックレビューを見る(『ガーディアン』はよい。)人からお勧めされる。書店で手あたり次第に買う。
岸本、ジャケ買いなので失敗も多い。ツイッターで文芸誌のアカウントをフォロー。

[感想]二人とも人気の翻訳家だからできた企画だろう。柴田元幸はなんとなくアメリカ文学の王道翻訳者だと勝手に思い込んでいたがそうではなかったらしい。文学研究者が翻訳する場合、範囲を自分で決めてしまいがちだが、これからはヨーロッパ文学も訳したいとのことだった。でも個人的な印象としては彼はアメリカの雰囲気の人なのでヨーロッパ文学はほかの人のために残してあげておいてほしい気がした。
あと、掲載作品を読んでいて、柴田と岸本のどちらが訳したかをまったく気にせず読んだ。翻訳家の文体的な癖のようなものは希薄らしい。ちょっと意外。


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