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ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』土屋政雄訳(新潮クレスト)

2021/2/11

この本はまず原書で読んだ。思ったより読みやすく、軽快な文章だった。最初のパートは村上春樹の『ノルウェイの森』をちょっと思わせた。傷つきやすい若者の物語かと思ったら、後半は主人公がイシグロ並みの信頼できない語り手だと分かり始める。最後まで読むと驚きの真相、ということになるのだが、いまひとつ納得できなかった。主人公の友人エイドリアンが主人公の元恋人ヴェロニカの母親との間に子どもができて自殺、ということなのだが、このちょっとだけ出るが妙に謎めいた母親と関係を持ったのはエイドリアンだけなんだろうか。ひょっとして主人公も短い滞在の間に母親と何かあったのに見事にそれを忘れたか隠すかしているのだろうか。そこを確認したくて図書館で翻訳を借りて大急ぎで再読した。

結果としては、主人公と母親の間はやはり何もなかったみたいだ。それなのにエイドリアン宛のやけっぱちの手紙に「母親と会え」と書くのはちょっと不自然では?ヴェロニカがあまりに不可解な性格だから生い立ちに何かあるはずという流れにしたのか。また全部読み終わったあとでも母親が主人公に500ポンド遺すのもよくわからないままだ。(わからないことがあっても解明できない、ということも含めた物語だとしても。)

しかし再読して良かったのは、高校時代の歴史に関するエピソードがどれも物語の伏線になっているとわかったことだ。第一次世界大戦のきっかけとなった暗殺事件の犯人は、大戦に対してどのような責任があるのか、など。ひょっとしたら作者が言いたかったのは「いま生きている人間にとって歴史とは何か」であり、それをわかりやすくするためにこの物語を作り出したのかもしれない。

「歴史とは、勝者の嘘の塊である」と学生。「敗者の自己欺瞞の塊でもある」と老先生。「歴史とは生き残ったものの記憶の塊」あるいは「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である。」と感じ始める主人公。その記憶とは飛行機のブラックボックスのように事故がなければそのまま開けられないもの。何かがあって初めて調べられるものだ。

ひとつ気になるのは障害者を「ダメージのある人間」として描くことだ。ヴェロニカが母親が自分の恋人との間に産んだ子(中年男)を世話しつづける様子がひどく陰鬱に描かれている。もし生まれた子どもが健常者ならばこの物語(=歴史)の意味合いが多少は変わってきそうに思えるがそういうものなのか。子どもを障害者にすることでさらに悲劇性を持たせることには抵抗を感じる。

今回たぶん初めて英語と翻訳でひとつの小説を全部読むということをした。言うまでもないことだが、翻訳は難しい。たとえば重要かつ謎めいたヴェロニカのセリフ "He will do, won't he?" は直訳すると「彼でいいでしょ?」ぐらいだろうけどどんなニュアンスなんだろう。(土屋訳では「いけるでしょう?ね?」となっている。)

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