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庄野潤三『夕べの雲』講談社文芸文庫

庄野潤三の『ザボンの花』はわたしの偏愛の書で、もう何度読んだかわからない。練馬に住んでいた頃の庄野の家族をモデルにして、日々の出来事を淡々と描いたものだ。そしてこの『夕べの雲』では、一家は練馬の家を引っ越して、生田の山の上にポツンと建った家で暮らしている。こちらは日経新聞に連載したもの。

『ザボンの花』の印象ではひばりが鳴く麦畑の真ん中の家で、ちょっとさびしいぐらいの立地だったのに、その後すぐ近くをバスが走る道路ができて、うるさくて嫌になったらしい。今度の『夕べの雲』は山の上の一軒家で、山道を行き来するのがたいへんだったのだが、やがて近くに大きな団地ができることになり、最後は山が削られてしまう。どちらもいかにも昭和の高度経済成長期らしいできごとだ。

いずれ山がなくなるとわかり、語り手は息子二人が元気に山で遊んでいる様子を見ながら、「ここにこんな谷間があって日の暮れかかる頃にいつまでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞こえて来たことを、先でどんな風に思い出すだろうか」と思う。すると今目の前の風景が幻のようにも思えるのだ。ほんとうに、今あるものは永遠にあるわけではなく、あっという間に失われて行くものだ。

穏やかではあるが毎日小さな出来事がつづく日々を綴っていて、しみじみする作品である。毎晩寝る前に少しずつ読んだ。しかし、正直言うとわたしは『ザボンの花』ほどは好きになれないのだ。『ザボンの花』は主に妻の視点で書かれていて、夫の視点になるのはごく一部であり、そのバランスがよかったし、妻の語りがのびのびと気持ちがよかったのだが、『夕べの雲』は終始夫が語り手なので、ややくどい感じがする。そして夫の目を通して描かれる妻も子供も妙におとなしい。妻は話し言葉まで違っていて、いわゆる「女言葉」を使う。「そうですわ。急ぐことはないんですもの」とか。昭和の妻はそんなしゃべり方を本当にしていたのだろうか。(わたしのまわりは誰もしていなかったが。)ひょっとして、こういう男性目線の描かれ方は、この小説が連載されたのが男性読者が圧倒的に多い日経新聞(夕刊)だったからなのか。

人によって好みが分かれるところだと思う。わたしはこれからも『ザボンの花』を読み返すことになりそうだ。いまひそかに願っているのは、子どもの頃に読んだ鈴木義治の挿絵入りの、あの本に出会うことだが。でもいま古本のサイトで見てみると、一番安いのでも7000円もするのだ…。やはり記憶の中の本を愛でているのがよいのかもしれない。


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