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宮崎智之『平熱のまま、この世界に熱狂したい』ちくま文庫

実はいま源氏物語(現代語訳)を延々と読んでいて、合間にそれ以外の本も読んでいるという感じ。この本はリチさんのnoteで知って読みたいと思いました。素敵な題名だし。著者がどういう人か全然知らなかったのですが。

読み始めたときは、以前読んだ星野源のエッセイみたいだと思った。若い男性がユーモアを交えながら、日々考えていることを誠実に綴っている。アルコール依存症やらいろいろな病気や怪我、離婚のことなど。ただ、この人の場合はそういう日々の思いの中に、ごく自然に彼が読んだ本の一節が出るのがユニークだ。文学が、あたりまえのように個人の思考に入り込んでいる様子がとても好ましい。だから普通のエッセイというよりは、文学エッセイとして読んだ。引用される作品も様々で、どれも興味を引かれる引用の仕方だった。読んでみたいと思うものが多かった。

二葉亭四迷の『平凡』からの引用では「実感」とは何だろうと思った。二葉亭によれば文学は実感ではないらしい。虚構だから? 福田恒存も「実感」について書いている。いまひとつ釈然とせず、引っかかったままだ。

トルストイの『イワン・イリッチの死」。読んでみたい気もするがちょっと怖い。人生って、死って、けっきょくつまらないものなのだぞと突き付けられそうだ。

吉田健一『時間』(大昔からの積読本だ)。過ぎていく時間に対して、それとは別に自分がいま在るということ。言わんとしていることはよくわかる。ああ、さっさと読まなくては。

吉田修一「Water」、未読だがひどく良いらしい。さっそく収録されている『最後の息子』を注文した。

こういう文学まじりのエッセイはいいものだと思う。自分でもこういうスタイルで書きたくなったぐらいだ。ただ、個人的には著者宮崎さんが常に未来を意識していることをあちこちに感じて、少々しんどかった。村上春樹が言い出した「35歳問題」というのがあるらしい。35歳は人生の折り返し点。そろそろ残り時間を意識するようになる年齢らしいのだ。宮崎さんもその意識があちこちの行間ににじみ出ている。「人は誰も今が一番若い」という彼の大発見も、未来の自分を念頭に置いているからそういう発想になるのだろう。読んでいるわたしはすでに彼の年齢の2倍近いので、人生の時間に対する感覚がまったく違う。

喩えて言えば、なんかこう、スタジアムのトラックを走っている人たちがいて、自分はもう最後のコーナーによろよろと近づいているのだけど、若いランナーはまだ向こうの第2コーナーに差し掛かったぐらいで鼻息も荒く走っている。そういう姿を遠くから見た気がした。人類はこれを、ずーっと永いこと続けているんだよね。

追記(2024.09.13)  「実感」について
・村上春樹と読者のメール交換を本にしたものが何冊か出ている。そのうちの1冊で印象的なやりとりがあった。ある読者は「村上さんの物語を読んでいる自分の中で、自分の別の物語が知らず知らず動き出している気がする」と言っていた。それが物語的な小説の重要な働きなのだろう。それは生の実感と必ずしも無縁なものではない。
・もうひとつ、詩についても書きたいけれど、いま考え中…。


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