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崇徳院が怨霊になったのはなぜか? 史実とは異なるエピソードが語り継がれてきた理由

古代日本では、政治的な争いで地位を失った者や争いで敵に敗れた者など、恨みを残して死んだ者の霊が「怨霊(おんりょう)」になると考えられました。怨霊は、災害を起こしたり病気を流行させたりする存在として恐れられ、時として政治を動かすきっかけにもなりました。

怨霊の中でも特に有名なのが、「日本三大怨霊」とされる菅原道真(すがわらのみちざね)、平将門(たいらのまさかど)、崇徳院(すとくいん)の三人です。

今回は、「日本三大怨霊」の中の崇徳院を紹介します。複雑な血縁関係に翻弄され、政争に敗れて不遇な一生を送った崇徳院が、人々の間で怨霊として語り継がれてきた理由に迫りましょう。


崇徳院の一生と保元の乱

崇徳院(崇徳天皇)が政治の表舞台に出てくるのは平安時代の院政期です。院政は、天皇が後継者に位を譲って上皇(出家後は「法皇」)になって、新しい天皇をサポートしながら実際に政治を行うことです。1086年、白河天皇が幼い堀河天皇に位を譲ったのが院政の始まりとされています。

崇徳院の諱(いみな、本名)は顕仁(あきひと)です。顕仁は鳥羽上皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし、待賢門院(たいけんもんいん))との間に誕生した第一子とされます。

しかし、璋子には、白河上皇(鳥羽上皇の祖父)とも男女関係にあるという噂がありました。そのため、鳥羽上皇は顕仁を自分の子ではなく祖父の子であると疑い嫌ったといわれます。ドラマになりそうなドロドロの愛憎劇があったのでしょう。

顕仁は1123年に5歳で崇徳天皇として即位しますが、実際に政治を動かしていたのは白河法皇でした。その後、院政を引き継いだ鳥羽上皇は、1141年に崇徳天皇を退位させ、藤原得子(ふじわらのとくし、美福門院(びふくもんいん))との間に生まれた子を近衛(このえ)天皇として即位させました。

近衛天皇の死後、崇徳院は自分の子供を天皇にしようとします。しかし、鳥羽法皇は得子にそそのかされて、自分の弟を後白河天皇として即位させました。

崇徳院は、天皇としても上皇としても政治の中心で活躍できず、不満に思いました。ちょうどこのとき、摂関家でも藤原頼長(ふじわらのよりなが)が兄の藤原忠通(ふじわらのただみち)と争っていました。そこで、崇徳院は頼長と手を組んで、源為義(みなもとのためよし)や平忠正(たいらのただまさ)などの武士たちを集めました。

一方、後白河天皇は、藤原忠通や藤原通憲(みちのり)のアドバイスを受け、平清盛(たいらのきよもり)や源義朝(みなもとのよしとも)などの力を借りて、崇徳院を夜に襲いました。

崇徳院側は敗北して、捕らえられた崇徳院は讃岐国(さぬきのくに、現在の香川県)へ流されました。これが保元の乱です。崇徳院は京の都に帰ることが許されないまま、讃岐国で亡くなりました。

『保元物語』と『今鏡』に描かれた崇徳院

崇徳院が怨霊となるまでの出来事については、軍記物語『保元物語』に書かれています。

讃岐国に流された崇徳院は、自分のために命を落とした仲間のために写経を行い、納経(のうきょう、写経を寺に納めること)を朝廷に求めました。しかし、後白河法皇は「経に呪いがかけられているのではないか?」と疑って、これを送り返しました。怒った崇徳院は「日本国の大魔縁(だいまえん)になる」と言って、天狗(てんぐ)になってしまいました。死後も怨霊となって人々に恐れられたといいます。

天狗というと、赤い顔で鼻が高く、背中に生えた羽で飛び回る、山伏(やまぶし)姿の妖怪がイメージされがちです。しかし、天狗にはさまざまな種類があります。仏教の修行をしている者が悪い心にとらわれると天狗になるともいわれます。そう考えると、後白河法皇への恨みから崇徳院が天狗になったことにも納得できるでしょう。

崇徳院に冷たくした後白河院の身の回りでは、実際に悪いことが起こり続けます。身内が次々と死に、大火災が起こり、政治的な対立も深まりました。社会が不安定になると、人々は「崇徳院の怨霊のせいだ」と考えるようになります。不幸が続いて精神的に参っていた後白河法皇は、怨霊をなだめるためにさまざまなことを行いました。

一方、歴史物語『今鏡』(いまかがみ)には、崇徳院は自らの不幸を悲しみながらも、保元の乱で対立した者たちを恨むことなく、ひっそりと亡くなったと書かれています。

『今鏡』は『保元物語』よりも成立が早く、記録としても信用できるとされています。そのため、『保元物語』に描かれる崇徳院の姿は、後の時代に作られたフィクションのようです。

『雨月物語』に描かれた崇徳院

江戸時代後期、江戸で発展した町人文化が化政文化です。この時期に流行した読本(よみほん)に、上田秋成(うえだあきなり)が書いた『雨月物語』(うげつものがたり)があります。『雨月物語』には、9つの怖い話が入っています。その中の「白峯」(しらみね)という話に、崇徳院の怨霊が登場します。

「白峯」とは、香川県坂出(さかいで)市松山にある山で、山頂に崇徳院の墓があります。この物語の主人公は、日本全国を旅して歩く僧の西行(さいぎょう)です。

西行はもともと鳥羽上皇に仕えていた武士でしたが、和歌が上手だったため、和歌を好む崇徳院とも交流があったとされます。『新古今和歌集』を代表する歌人で、百人一首86番の作者としても有名な人物です。

物語は、西行が白峯を訪れたことから始まります。西行は、崇徳院の墓の前で経を読み、歌を詠みました。そこに崇徳院の怨霊が現れ、保元の乱で敵となった者たちを恨み、人々を操って平治の乱を引き起こし、後白河法皇の仲間の命を次々と奪ったと言います。さらに、平氏が滅びることも予言しました。

西行は、崇徳院が怨霊となったことを悲しんで、「よしや君昔の玉の床(とこ)とてもかからんのちは何にかはせん」と詠みます。この歌を聞いた崇徳院は、穏やかな表情で消えてしまいました。

山を下りた西行は、崇徳院の怨霊と出会ったことを誰にも話しませんでした。しかし、世の中では、崇徳院の予言通りの出来事が起こっていきます。

崇徳院が怨霊として語り継がれてきた理由

保元の乱の後、悪い出来事を次々と引き起こしているのは崇徳院の怨霊であると考えられました。実際、政治の混乱や災害が起こり、平氏と源氏の対立が激しくなり、源平合戦にまで発展したのですから、これらが崇徳院の祟りと信じられてもおかしくはないでしょう。

その後、崇徳院は『保元物語』でさらに恐ろしく描かれ、江戸時代の『雨月物語』などにも怨霊や魔王として登場します。このように、崇徳院はフィクションを通して後の人々に幅広く知られ、「日本三大怨霊」の一人として語り継がれるまでになりました。

崇徳院に限らず、歴史上の人物は、人々のうわさや文学作品などを通して、実際の姿とは違ったイメージを与えられていくものです。彼らの有名なエピソードは、必ずしも史実とは限らず、フィクションであることも少なくありません。

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