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思考の海
ミミズ飯という名のミミズ飯です
思考の海なんて、平易な表現どこにでもあるよなと思いつつ、タイトルに抜擢しました。
実際google検索で、いくらでも出てくる。SNSの投稿から、ブログ、きっとnoteでもいくらでも出てくる表現。まぁだからこそ伝わりやすいなんてメリットもあるのかもしれない。でも、「思考の海」なんて言葉が同じだけで、想像してる海なんて同じじゃない。現実なら、海は繋がってるから全て同じ海だ。私たちが現実で言うそれぞれの海は、地形を着飾ってるだけで、海なんてものはどこでも同じだ。どこまでもしょっぱい、大きすぎる、ただの海。
でも、思考の海は違う。隔たれた海だ。誰にも知られない海。陸地なんて着飾らなくても、十分魅力的な海。過度な刺激はなく、手頃な大きさの海。そんな海だ。たびたび私たちは、そんな海に潜る。息が続かなくなるまで、潜る、潜り続ける、底まで潜り続ける。でも思考の海に底なんてない。それでも潜る、何かを探すように潜る。何かを見るために潜る。
すると、ふと沈む感覚を感じる。潜るのをやめて、仰向けになる。水面を裏から観察してやる。自分の残してきた水泡をなぞってみる。水泡は、空へと潜っていく。かつての大気へと、潜っていく。
そこで初めて、自分が潮の流れに流されていたことに気づく。魚たちを避けながら潜っていたことに気づく。自分を水泡に重ねて、そんなことに気づく。水泡が水面を突き破ったタイミングで、水上で目を覚ます。船へ戻り、記録を記す。そしてまた海へ飛び込んでいく。
...出来としては 小学生の時に書いたなろう小説より下だな
ごめんなさい急になんか描いてたらポエムみたいになった。まぁでも思考の海に潜るってそんな感覚じゃないですか?潜って、なぞって、元に戻る、そんな繰り返し。私はその感覚がとても好きです。特に潜ってたのが沈むって感覚になるタイミングが好きです。
最近自分は、思考の海に潜るのが下手になりました。何より、潜るのが楽しめなくなってしまいました。
広い海に魚を並べれば、潜らなくたって見えるじゃないかって。
水泡の記録じゃなくて、海の地図を書けばいいじゃないかって。
私の水泡の記録を見た人は、みんなそんなことをいいます。ただの感想のうちは良かったけれど、後に強制されるようになりました。効率化するため、成功するため、生きていくため。
今ではもう、潜ったって、水面に浮かぶ魚の影しか見えません。仰向けになるタイミングのワクワク感はもう無いわけです。
潜る場所を決めるときは、自分で並べた魚の地図を使う。着飾るための陸地よりもひどい、どこで潜っても均一で空虚。
それでも潜ります。深く深く、誰にも邪魔されない深さまで潜ります。暗くて冷たくて、しんどくても、自分の海を感じるために潜ります。のちに光なんて忘れて水泡も忘れて、水面を突き破る痛快さも、魚を避ける楽しさも、潮の流れの多様さも忘れて、無いはずの底を作り上げて、永遠に沈んでる。
...黒歴史を増やすな
思考の海なんてでも、黒歴史の集合体ですし。社会に到底馴染めない部分だし、社会に明け渡すわけにはいかない部分だし...
でも、求められるでしょ。明け渡せと、改造しろと。フランケンシュタイン博士だらけですよ。
もう一度、また楽しく海に潜れたらいいなとは、本気で思う。
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