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完璧主義

自分の理解プロセスは
全体を把握して
要点をまとめて
全体の中で要点を試して
要点を道具にして
それを使い続ける そんな感じ

でも、世間では
要点だけまとめられてて
それを完璧に理解してください
覚えてなかったらそれはお前様の責任です

っていうのは、よくある

私はそんなに賢くないので、一回で覚え切ることはできない
んでそんなに素直でもないので、まる覚えっていうの自体気に食わない

そこで、私はいつも「結果良ければ全ていいやろ」ってので丸覚えを放棄して、全体を掴みに行くんですね
これがおごりってやつで、「私ならこんなの0から作り上げれるわ」と息巻いて、色々勝手にやりだすわけです

 この方法が一番刺さるのは、学校の教科でいうなら数学だと思っててそれは、1+1さえ認めれば、全てその延長線上に繋がっててそれが割とシンプルな構造をしてるからと言いたいけど言い方がわかりずらいので
 もう少し噛み砕くと、数学は一つの定義を決めた時点で多くのことが言えるもので、数学の手法というのはその定義を使いやすくしたいという必要性に応じて作られたものに過ぎないということだと思ってて
 もっと具体的な例えを出すならば、マインクラフトにおけるシード値が数学の定義、そのワールドで肉を焼くだの、宝箱を探すだのってのが手法だと思うわけです

私はこの辺の話が好きなんで、もう少し踏み込む
数学は発見か発明かという命題?があって、私は発見だと思うわけです
多分厳密には発見が先か、発明が先かという議論になる….

マインクラフトで例えるとして、この考え方はマトリョーシカみたいな構造になってるので一番内側のマトリョーシカから考える
それは、例えば宝箱を探す方法 これは発明なわけです 目的があって、実現のための手法を発明する 例えばなんだろ、コンパスとか?宝の地図とか?
一つ外側に移る。とするとそれはマイクラのワールドなわけです。ワールドは元々あるものなので、発見です。もっと言えば宝箱もワールドの一部なので結局はそれも発見だろうと。ワールドが先にあって、それを発見し、測量をして地図を作り、宝を見つけられる手法を確立するそんな構造
もう一つ外側に。シード値を決めたのは我々です。つまり、その世界がどうであるかを決定したのは我々なわけです これは発明なのではないか
もう一つ外側に。シード値に基づいてワールドを生成する仕組みは、我々が発明したものではありません(ゲームを遊ぶ人の立場でね) ならその仕組みは発見されたものだと言える
プレイヤーという目線で観測できる外側はここまでなので、私は発見が先だと思うわけです

現実世界のプレイヤーである我々は、ますこの世界を発見することしかできないし、そこで見出した解釈が回り回って数学になっていると思うわけです

話がかなり脱線した…
なぜ数学が一番刺さるかというのは、要するに世界に対する解釈さえ共通化させられれば、あとは勝手に拡張したとしても大体他の人と言ってることが違いすぎるということが起きないからです

じゃあ刺さらないのは何か、それ以外全部です

言語科目は、定義は大体どの言語も同じです。他言語に翻訳できるというのが一番わかりやすい話。ただどう名付けるかなんて各々の勝手なわけです。自由に拡張したら未知の言語で話してる人になるわけです。

理科科目は、おおよそ世界の解釈をする学問だと思う。それを拡張すると技術になるのだと思う。なので理科科目に止まっているうちは解釈を学ぶしかないという…発明が介入する隙はないですね

社会科目は、ある意味で解釈の学問であり、ある意味で数学でいう発明ができる科目でもあるとは思います。けど、人間の脳では計算能力が足りない。要するにそれはもはや社会シミュレーションな訳で、結局解釈の学問になる。解釈に関しては幅が広いし、解像度によって全然解釈が変わってくる。理解に必要な解像度は高いことが多いし、結局名前はなんでもいいはずなのにいちいち覚えないといけない。

んで、数学も高度になればなるほど、解釈の対象が広くなるので頭が追いつかなくなって、自分で発明するのは難しくなってくる その最前線にいるのはいわゆる天才数学者って感じでしょう。

つまりどうなったか、私は全教科高校二年から伸びないまま受験して、現在に至る…というわけです!バカです!んで現状バカなままなわけです!

まぁバカなのは自明なのでいいとして、完璧主義って結局こういうことなんじゃないのと思うわけです

なぜ人間は完璧主義に陥るのか 大体失敗したくないからというふうに書かれてて確かになぁと思うわけです

なぜ失敗したくないのか それはあんまり書いてないんですよね まぁ人によるからなのかな…でも大体想像するのは怒られたくないから、恥ずかしいから、そんなところじゃないですか

けど、遅れて出す方がよほど怒られるし、恥ずかしいじゃないですか だからそれが原因ではないんですよ じゃあなぜなのだろうか
そもそも失敗ってのは、一つの定義しかないのか
失敗にも種類があるだろ

なんか発明の天才がよく言いますよね「失敗してもまだこんなけ方法残ってるんだから、候補が絞れてよかったじゃないか」と。よく名言らしく紹介されて、発明王すげーって、私も諦めずに頑張ろうーってなるわけです。多分あの天才たちも、全部の候補が失敗だったら余裕なくなると思うんですよ。てか候補がなくなった時点でその人は天才でもなんでもなくなると思うんですよ。
あそこでいう凡人と天才の違いって、候補をどれだけ出せるかだと思うんですよね。ただそれは数が多いかではなく、どれだけ網羅できているかだと思うわけです。

例を出しましょう。くじを引きます。100枚のうちあたりは1枚です
発明王は70枚ハズレを引いて「これほんとに当たり入ってるんですかね〜」とか言いながらついでにこういうわけです
「ハズレてもまだこんなけ方法残ってるのだから、候補が絞れてもよかったじゃないか」って。
発明王すげー、私も諦めずにがんばろー とはならんやろ。

ただこれは意地悪な例なので、もう少し現実味のある例を
何階建てでどれぐらい大きいかもわからないオフィスビルがあるとします
この建物のどこか一室に宝箱があるとしましょう
天才は、ビルの全ての構造を上手くマッピングして、宝箱のある場所の候補を割り出すわけです
けど、凡人はマッピングするにも一苦労だし、その中から候補を出しても、それが全体を見た上での候補かどうかなんてわからないわけです。
んで天才が「失敗しても…」というわけです
凡人は、天才すげーってなるわけです

何が違うかと言えば、マッピング能力な訳です
んでマッピングされている失敗と、マッピングされていない失敗では、その後の動き方に大きな差があるということなわけです。

天才だってマッピング失敗しますよ けどそれを独力でマッピングに生かすわけです だからいつかは成功できる

ただ手当たり次第に失敗すると、マッピングできない。ダブりができたり、抜けたりする。結果、成功する確率は、作業量に応じて上がらない。

また脱線したから戻すと、失敗したくないというのは、失敗に懲りてるわけです。建設的な失敗ができないから、失敗したくないんだと私は思うわけです。マッピングに応じた失敗をしたいけど、マッピング能力が足りないわけです。もしくは、マッピングする手間が面倒なわけです

ならどうするか、天才のマップを使うでしょう。要するに、既にまとめられてるルールブックに従って動くんですよ。自分でマッピングする能力がないなら、他人のマップに頼る他に成功する方法はないわけです。

この記事は自己分析のために書いてます
私はつまり、マップを作る人でありたかったけれど、能力的に限界がきた。けどいまだにマップを作ろうとして、作るために必要な失敗をすることができない。結果失敗するのに懲りて、ワールドを手探りで歩き回るけど地図は一向にできない。でも他人の作ったマップを使う素直さはないので、永遠に自分のマップに引きこもっている。そういうわけです

んで、その状態のことを、完璧主義などというわけです。
と、私は思うんですがね

完璧主義なら、完了主義になるといいよみたいな主張も聞くんですよね。つまるところ、見えてないなら、他人のマップ使ってとりあえず目的地に行くか、手探りでもちゃんとマッピングして誰かに出せと、そういうわけです。
だからマッピングできないって言ってんだろというのはさておき、まぁ他人のマップを使って学べとそういうわけです。違うな、それは無理だな。

だって出来上がるマップは同じはず、じゃないと集団的な知識にならない。他人のマップを見ることは、発見の手助けにはなるけど、発明の方法を知ることはできないな。

となると、マップから逆算して、発明の方法を知るしかない となると、マップをやっぱり使わないといけない

先人の知恵を使って道を歩くのは大事なんでしょうねそういう意味で。でもマップをすでに持っているならば、必要ないね。自分の解釈でしかマップを見れないだろうから。

まぁなので、完璧主義に与えるべきは、マッピングの手法を教えることで、せめて出来上がっているマップを公開することなのかなと、そう思うな

「人のせいにするな」と言われそうですが、別にしてない
無理なものは無理
建設的な方向を探し続けてるのだから、黙って見てろ

ではー


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