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米津玄師の「月を見ていた」MV考察

ゲームの世界はいつでも戦っている。もちろんその他のゲームもあるが、それがどこか物足りなく感じるほどに、ゲームの中では戦っている。
そして今回の奇襲とも言える米津玄師の「月を見ていた」のMVもまた戦っている。

月を見ていたMVより

ファイナルファンタジーをPlayしたことがない私が語るのも何だが、このゲームのテーマとしてはっきりしているのは「戦争」なのだが、その逆に「平和」がテーマだとも言える。そして「人が人として生きていく世界」という言葉から、平和を勝ち取った後の「人生」がテーマだとも言えるのではないだろうか?

月を見ていたMVより

戦いはなぜか「生」を感じる。それは「死」という因果を抱えた人間たちがそのぎりぎりまで追いつめられるからではなく、「戦争」が男たちのものだとしたら、誤解を恐れずに言うならば、「戦い」にある種の興奮を感じるからではないかと思うのだ。

月を見ていたMVより

ファイナルファンタジーのコアなファンたちが感じるのもその「興奮」ではないだろうか?それを男と女という「恋愛」に当てはめてみたならば、女たちはそんな男たちの興奮を時に喜び時に嫌悪する。

月を見ていたMVより

今回の米津のMVは、私としては何の救いもないような感じを受けた。それはファイナルファンタジーというゲームの中のドラマを知らないからかもしれない。けれどこの「月を見ていた」は、ゲームとしてのファンタジーよりも、何か今という時代のリアルを見てしまうのだ。

「救いがない」からこそ、ハッピーエンドを希求する・・・はずなのだが、人はその反対にバッドエンドも望んでいるのだ。その相反する意味をなす感覚としての何か言葉にならないジレンマ・・・。

月を見ていたMVより

米津のMVは物語だ。ジレンマに促され叫んでいるかのような米津のその姿は、ファイナルファンタジーのテーマの1つである「正義」の船の中で、グル(サンスクリット語で指導者、尊師を表す)に囲まれながらも、戸惑いつつ、自分を失うその一歩手前まで己を追い詰める、伸ばされた手は、救いなのか破滅なのか?

月を見ていたMVより

ファンタジーとは、いつだって「時」がない。ある日ある時ある所で・・・と始まる。日本で言うならば、「むかし、むかし、あるところで・・・」といったところだろうか。

ただそんな中で、飽きるほど使い古された男と女の物語がある。「愛」と言う言葉もまた、そんな男女の物語、所謂、恋愛という中でもっとも古く、またもっとも新しい永遠のテーマとしてそれはあるのだ。

月を見ていたMVより

ただ今、人は「ひとり」でいる人が多い。それは「独身」を貫くという意味だけではない。ある種の「絶望」が人を物語に誘うというのもあるのだが、そこにどうしても罪悪感を持たずにはいられない、それは「抵抗感」であり、米津が言う「物申す」ということでもあるのだ。
首だけ落とされた鶏が、首のないまましばらく走り回るのだと言うことを聞いたことがある。人間もまた方向を見失うととんでもないことをしてしまう。

そして「米津玄師の歌詞の謎」にも書いたのだが、ある種の言葉遊びの中で米津は歌詞を書いているのではないかと。

さすれば「絶望」の「ぜ」から濁点を取れば「せ」になる。ならば「絶望」は「切望」となる。望むからこそ失うのだという、一種のジレンマが生じる。このジレンマこそが、どうもこのとち狂った「戦争」を生み出すような気がしてならない。

月を見ていたMVより

ゲームのCGは、今ではわざと「作り物」のように加工したかのような世界観に見えるほどに、その技術は限界を極めてきたかのように見える。
「月を見ていた」のMVの中で最初に立っている米津の足元が何となく透けているように私には見えるのだがどうだろうか?

月を見ていたMVより

そしてその次から変わる場面は、ファイナルファンタジーの世界。それはつまり仮想空間である。その中の米津がゲームの中の1人であるならば、そこはすでに仮想空間ではなく現実だ。

何かを求めて月を見ていた 嵐に怯えるわたしの前に
現れたのがあなたでよかった

月を見ていた歌詞より

サビの歌詞と共に映し出されるのは、ただ「戦い」だ。兵士たちはある意味、首を失った鶏のように見境なく人を殺していく。その場面と交互に映し出される米津は、MVの始まりの場所から一歩も動いてはいない。

ここにいながら、ゲームの中にもいる。それは非常にリアルを味わえるVRのゲームのようだ。ほんの少しだけ私もVRのゲームをしたことがあるのだが、それは非常に驚きの世界だった。
私は6畳ほどの部屋の机の前の椅子に座って、VRのゴーグルをつけていたのだが、そのゲームの世界の中では4畳半くらいの狭い部屋にいた。背中は実際には何もない広い空間なのだが、ゲームの中ではすぐ後ろがドアだった。

握った空き缶は、実際と同じような感触を感じ、機械のスイッチを押すのも実際に押しているかのような感触がある。
高いところから見下ろせば、本物の恐怖心も感じた。
一体これはどうしたことか?全ての感覚はこの「脳」に集約されているのだろうか?

そんなことを感じつつ、VRのゴーグルを外した後が酷かった。しばらくは吐き気を感じつつ、それを収めるために冷たいサイダーを飲み続けた。
聞くところによると、VRをやるときは酔い止めを飲むといいらしいが、私の脳はまだ、そういった仮想空間には対応していないらしい。

話しが米津のMVから少し外れてしまった。先にこの米津のMVは「何の救いもないように感じた」と書いたが、ならば「救い」とは何なのかと自らに問いかけてみる。

月を見ていたMVより

けれど忘れてはいけないのは、この「月を見ていた」はゲームの主題歌だということだ。けして米津のナルシシズムではない。
ここに来て、米津のユーチューブでのアップ率が上がったかのように私は感じているが、ある種の頂点を極めた彼は、これからはそこからどんどん展開していくような気軽さと気楽さが必要なのかもしれない。

月を見ていたMVより

ファンタジーには時がないと書いた。始めに現れた女性との絡みから、米津は一歩も動いていない。けれどゲームの世界と米津の立っている場所は別である。ただ同時進行のようにこのMVは進んでいく。

最初に彼の前に現れるこの女性は、非常に意味深な現れ方をするのだが、すぐに立ち去ってしまう。この女性を米津が探しているようなストーリーだと言う考察もあったが、私には最初のこの女性が米津の強いトラウマを表しているような気がしてならない。

月を見ていたMVより

女性の右手に浮かぶのは、まるで「蛇」のようだ。こう書くと聖書の失楽園の物語を思い出す人もいるかもしれない。聖書での「蛇」の役割が何なのかは知らないが、この彼のMVの中ではどこか狡猾な女を表すような気がする。

月を見ていたMVより

ならば最後のシーンの殺される、兵士の手に浮かび上がる同じ模様は何なのかと言う疑問が浮かぶかもしれない。私としてはそれは「一種の呪い」なのではないだろうかと思うのだ。

この因果から抜け出すには、人の意識を変えるしかない。

ファイナルファンタジー16より


月を見ていたMVより

原因と結果の直線の世界であるのが因果応報だ。人は何かの区切りの時、物理的にも精神的のも身辺を整理する。ただそれは、同じ世界で同じものを捨てたり片付けたりしているに過ぎない。

全てを燃やして月を見ていた
誰かがそれを憐れむとしても
あなたがいれば幸せだったんだ
およそ正しくなどなかったとしても
消えたりしない

月を見ていた歌詞より

中盤このサビの歌詞と共にアップになった、米津の目の中に映し出された炎は涙のようだ。どんなに戦いを重ねても、ゲームのキャラクターが現実世界に出て来れないように、そこはただの時間軸の中なのだ。
すなわちそこは、因果応報の世界に他ならない。

最後に出てくる太極図のような赤ん坊は、生命の源として、また戦を乗り越えた強い魂として、本当の意味で世界が新しく変わっていく象徴として描かれていると私としては解釈したい。

そしてそれは米津の願いでもあると信じたいのだ。



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