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LOSERの頃の米津玄師のインタビューに見る彼の才能と弱さ

自分のことが嫌いな部分というのはあって、最初にくるのは「俺なんて」と思うし、負け犬なんじゃないかなって自分中にあるんです感覚が。

ZIPインタビューより

テレビ番組のZIPに出演した時に放った米津玄師の言葉から、彼の性格や才能を掘り下げてみたい。

これはちょうどある意味彼の才能が認められた曲「LOSER」の発売にちなんでテレビに出演した時の言葉だ。

「俺なんて」という言葉は非常に気になる言葉であるが、先に「LOSER」の
歌詞にある「負け犬」の定義について考えたいと思う。
「負け犬」とは、一般的には「喧嘩に負けて逃げる犬から、勝負に負けた人間のことを言う。

ああ わかってるって 深く転がる 俺は負け犬
ただ どこでもいいから 遠くへ行きたいんだ 
ただそれだけなんだ

LOSER歌詞より


「競争社会」とはよく言ったもので、これは古今東西変わらぬ社会の仕組みだろう。「勝ち組」「負け組」で言うならば、米津は完全に「勝ち組」なのだ。

「lemon」の楽曲で手に入れた「勝ち組のパスポート」を、現在までにどう使ってきたか、それは彼を「ハチ時代」から愛してやまない彼のファンたちが、一番よく知ってるであろう。

「逃げるが勝ち」という言葉があるが、称してボカロに共鳴する人は、いい意味で「引きこもり」であり、これは完全に私の主観だが、自分の気持ちの代弁者よりもどこか共鳴できる「自分の代わりに成功してくれる」誰かを求めているような気がする。

そもそも人に見られることがあまり好きじゃなくて(メディア出演を)やらなくて済むんであればやりたくはないですね。

ZIPインタビューより

そういう意味では米津は「成功者」であり、またその「成功」を分けて与えることができる唯一のボカロ民である。

彼に歌を通して自分の思いを受け止めてもらい、また彼の成功をどこかで願いながらも、実際に「成功」し米津が「自分だけのハチ」ではなくなる時、
もしかしたら多くの米津のファンであるボカロ民たちが、「路頭に迷うような」思いを通過したのかもしれない。

(オリコン一位を獲得した後変化は?)

全くないですね。ほんとにもう、自分でもびっくりするくらい変わらなくて。歩いてても気づかれないというのもありますけど、「俺は家でずっとゲームばっかりしてる」

ZIPインタビューより


それでも「変わらない思い」を伝えている米津の言葉である。
そんな米津の言葉に安心する一方で、どこか「自分だって」と言う思いを歓喜させる、いわゆる社会からはみ出た「負け犬」であるというボカロ民たちを「底上げ」させる彼の言葉であると思うのだ。

ずっと思ってたんですけど、如何せん人とものを作る才能がなかった「個人主義」っていうか、自分の意思をすべて尊重する人間だった。

ZIPインタビューより


「個人主義」とあるが、その正しい定義は置いておいて、私自身の米津に対する勝手な見解を述べると、「個」とは「孤」であり、米津の場合「孤独」とは「孤立」とは違う彼の「責任」と「使命」を担うものであり、「自分の意思をすべて尊重」とは、米津の「プライド」である。

「人とものを作る」ことを「才能」だという米津だが、一人引きこもって音楽を作ることもまた「才能」なのだと思う。
「loser」とは「敗者」という意味だが、それはこの「社会」という決められた「枠(価値観)」の中での「はみだしもの」を表し、米津自身もわずらってきた「高機能自閉症」といういわゆる「発達障害」と言われ、この世界でのどうしようもない生きづらさを抱えてきたボカロ民への「エール」もこめられた曲のタイトルだと感じるのだ。

踊る阿呆に見る阿呆 我らそれを端から笑う阿呆
デカイ自意識抱え込んでは もう磨耗
すり減って残る酸っぱい葡萄

LOSER歌詞より

この歌詞は「loser」の歌詞の中にある彼の表現者としての「才覚」を表す素敵な部分だと思う。
あくまでも私の見解(想像)だが、社会のあり方に反旗を翻す者たち、そしてそれを見る傍観者たち、そしてそれを端から笑うものをこの世の権力者だと見るのは、少し過激な話になるだろうか?

自分と同じような人間がやっぱりどこかにいるわけですよ。そういう人に対して、できればポジティブな方に、毎回思いますね、曲作る時は。

ZIPインタビューより


私は「ポジティブな」を「優しさ」と訳し、少しでも自分の音楽に触れた人がその方向に向いて行けるようにと願う、米津の曲を作る姿勢だと感じた。
「自分と同じような人間」、それは”生きる”ことに対して不器用な人間を表すのなら、得てしてこうした不器用さを持つ人同士のつながりは、なかなか持てないのが現状である。そういう人に対しての「見えないつながり」は、米津の楽曲を通して得られているものなのだと信じたい。

「ポジティブな方向に」、それは絶望の先にある小さな光のようなものだとするならば、米津の歌を聴き、彼のライブを心待ちにしているファン達が、
「そうだ、そこまで深刻になることでもなかったな」と、少しでも感じ取ってくれたならば、彼の思いも生きてくるのではないだろうか?

自分のことが嫌いな部分というのはあって、最初にくるのは「俺なんて」と思うし、負け犬なんじゃないかなって自分中にあるんです感覚が。

ZIPインタビューより


冒頭に引用した米津の言葉を再びここに引用したいと思う。
「俺なんて」という言葉は、へりくだった謙虚さより、得てして弱さや「自己否定感」を感じさせる。
昭和時代は、弱き庶民たちは「自己の代弁者」を探し、ある意味での統率者を求めた。けれど平成に入って攻撃されたのはいわゆる「引きこもり」や「不登校」と呼ばれる子供たちである。

ボーカロイドとは単直に言えば、よく知られる「初音ミク」に代表される「歌声合成ソフト」を使った楽曲のことである。
生身の人間の声ではないので苦手な方も多い。
ただ昭和時代は熱血先生のドラマが流行したどこか「熱き時代」であるのとは反対に、この機械音でありながらも可愛いキャラクター性を売りにしたボーカロイドは、平成時代に誕生した音楽の世界では画期的なものである。

ボーカロイドの先駆者とも言える米津の楽曲は、独創的なアニメーションと共に、当時の中高生を魅了した。
彼は良い意味での「ハーメルンの笛吹き男」であり、「俺なんて」という言葉に込められたのは、謙虚さよりも「弱さ」であろう。

私はこの「弱さ」こそが、当時「ぼっち」などと呼ばれたネットの中に居場所を求めた米津と同じような世代の若者たちに、「勇気」というある意味で「私もだよ、米津さん」という「支える気持ち」「与える気持ち」を生み出したと思うのだ。

僕今25才なんですけど、もうここまで育ってきちゃったら、自分がどういう人間に対して抗えないじゃないですか。ちゃんと前を見て生きていくしかなくって、それしか残されてないんですよ。

ZIPインタビューより

LOSERていう曲はまさにそういう曲で、歌詞の中にその、長い前髪で前が見えない、完全に今の自分であって、自分のこと嫌いな部分とかそういうものを音楽にして、自分を見つめ直すという意味合いもあってあの曲作ったんです。

ZIPインタビューより

「loser」の辺りから米津のライブのチケットが取りにくくなったという声を聞いた。
ある意味彼の才能が花開いたのがこの「loser」であるならば、「敗者」という曲のタイトルは、どこか皮肉めいたものを感じる。

「俺なんて」という彼の言葉にあえてこだわるならば、これをどこか体裁をもった謙虚さではなく、みっともないぐだぐだした「弱さ」であるからこその米津玄師の言葉ではないか?
「弱さ」とは、ひたすら隠したがる「恥じ」としてのものではない、誰もが持ちうる普遍的なものなのだと思うのだ。

アイムアルーザー なんもないなら
どうなったっていいだろう
うだうだしてフラフラしていちゃ今に
はい左様なら
アイムアルーザー きっといつかって 願うまま
進め ロスタイムのそのまた奥へ行け

LOSER歌詞より


「ロスタイム」を「後悔」と呼ぼうか?
人生においての後悔は、誰もがきっと多く持っているであろう。
これは米津の「loser」とは少し外れるのかもしれない。
けれど人生においての苦しみは、ただひたすら「後悔」することにあるのではなかろうか?

「きっといつか」と願いながらも埋もれていく者たちがいる。
ただ失った時間に固執するばかりではない、そのまた先があるのだという
月並みな言葉にはなるが「希望(ひかり)」がある。

そう信じて今回の記事「loser(敗者)」を終りたいと思う。











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