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先生という傲慢さ

ただただ校則に縛られるのが「学校」ならば、それは「自由」を学ぶ絶好のチャンスである。

親の次に影響を及ぼすのが「先生」だ。なぜなら人生の序盤を「支配」していると言っても過言ではないからだ。
週休一日、土曜日は「半ドン」と呼ばれる午前のみの授業。1週間のほとんどの時間を「学校」と言う集団生活を強いられながらも、まだほとんどの子供たちが登校を「拒否」するなど思いもよらないまま、通学していた。

私が中学を卒業する頃にようやく「社会問題」として、子供たちの問題がテレビで取り沙汰されるようになった。
先に「拒否」するなど思いもよらなかったと記したのは、私自身が大人になってからようやく気付いたことで、それほどその頃洗脳されてたのだ。

ところで、教育実習の先生というのは、大学生なので当然ながら若い。小学生にとっても、格好いい男子の教育実習の先生は、女子たちが色めき、美人な先生には男子たちが色めいていた。

小学二年、三年の時の担任の教師は、そんな実習をクリアした新米の先生だった。先ほど「色めく」と言ったが、その大学出たての先生は女だった。初めての休み時間、男の子たちがふざけて抱き着いたら、先生がよろめいて床に倒れこんだ。それを見ていた他の子供たちが、「わーっ」とその先生の方に押し寄せた。先生にとっては恐怖だったのだったのではないだろうか?少し顔を引きつらせていたのを、子供心にも覚えている。

そこからその先生の授業は、惨憺たるものだった。
授業中だというのに、子供たちは誰もお喋りをやめないのだ。そして私もの中の一人だった。

ある日のこと、いつもと変わらず授業中に皆がお喋りに夢中になって、先生の話などまるで聞かずに騒いでいた時、私にいきなりその先生が当ててきた。当然ながら私も先生の言葉など聞いていなかったため、答えられずに黙っていると、先生はそのまま別な子供、その子はクラスで頭の良い子だったのだが、その子に答えるように当てた。

これほどのうるささの中でも、その子は答えを言った。私は驚いたのだが、その生徒以外は誰も聞いていなかったのだ。
その後もこの先生の授業は、同じような状態が続く。そのうちこの先生は顔を真っ赤になって「うるさいっ!!」とヒステリックに怒鳴るようになった。その時だけは一瞬シーンと教室が静まるのだが、すぐにまた生徒たちのおしゃべりが始まる。

小学二年生を統率出来なかった先生は、保護者会の中では問題になっただろう。私は覚えてないのだが、だんだんこの先生は、叩いたり、痣が残るほどつねったりしたため、保護者との懇談会でもめたらしい。

二年生、三年生と二年間、私はこの先生が担任だったのだが、後に教師をやめてスーパーのレジを打っていたと聞いた。

覚えてはいるが、それがどれだけ私の心に傷を与えたのかはわからない。小学校での生活は、六年間と長い。昭和の頃の教育のコンセプトは、教え育てるというより「しつけ」がメインであろう。

小学四年生以降も、先生との惨憺たるエピソードは続くのだが、目立たぬように目立たぬようにとしていたことが、逆に先生に物議を醸し出していたのかもしれない。

親同士の競争が、子供に飛び火する。次回はそんな滑稽でありながらも、もしかしたらこのことこそが、真の意味で私の心を傷つけ、その後のライフスタイルの決めてになったのではないか?

そんな親同士の戦いの中で、培われた「価値観」が私の生涯を支配するほどになったかもしれないことを、書きたいと思う。


※米津さんからの一言 素直になってね。

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